『わたしたちはいま、どこにいるのか』(日本基督教団代田教会編・新教出版社)
新教コイノーニアというシリーズの第27弾である。2003年に亡くなった、隅谷三喜男先生を記念する本である。東京の代田教会は、晩年隅谷三喜男先生が在籍した教会である。それで、亡くなった後も、先生の業績を大切にし、協力者を得て、シンポジウムを開催した。雑誌に一部公開されたが、質疑応答を含む全貌を世に問うために本書が成立した。
代田教会は、聖書から福音を毎週語る教会である。そこには日本で最高レベルの説教を語る牧師がいる。元来社会的な話題を振りまくタイプの教会ではない。しかし、この隅谷三喜男先生をメインに掲げる本となると、それを避けるわけにはゆかない。先生は、この社会と教会との境界線上に立つような仕方で、経済の問題と教会の問題とを、それぞれに考察し、また、時にそれらの関係について発言もしてきた。
隅谷三喜男先生は、労働経済学を専門とする大学教授であった。五味川順平の『人間の条件』のモデルとなった人物でもある。その作品は、加藤剛が初主演したテレビ映画であり、映画版としては仲代達矢が演じている。満州での体験から、日本での労働や社会の政策にも関わってきた。キリスト教徒であることから、私もその方面の本を幾つか読んだが、案外そうした著作は少ないようだ。
本書には、隅谷先生の人柄をも含め、先生が教会全般に対して発言してきたことを軸に、「隅谷三喜男先生から託されたもの」というサブタイトルを掲げ、3回のシンポジウムの様子を収めている。
大きなテーマとしては、本のタイトルの通りに「わたしたちはいま、どこにいるのか」が掲げられた。これはもちろん創世記でアダムに対して神が最初に声をかけたときの言葉である。だが、モーセやエリヤなど、聖書の要人に対して、神は時折その意味の問いかけをぶつけている。要人などではないか、私もその一人である。この問いかけなしには、神の前に引きずり出されることはなかった。神に出会うことは、なかったのである。
このタイトルだけで私の心を掴むには十分だったが、目次を見ると、最初は「東アジアとの関わり」というように、私が特に足を踏み入れていない領域の話題から始まっている。その後は「隅谷三喜男と日本の教会」と続き、いまもなお私たちが耳を傾けなければならない点について、三人の論者の熱い語りとディスカッションの様子が明らかにされる。最後には「隅谷三喜男の座標軸」と題する回があるが、これではもうひとつ分かりにくい。「キリスト者としてこの世を生きる」という副題で、しっくりくる。しかし、それは個人倫理の話ではない。あくまでも社会的な眼差しを大切にし続けた隅谷先生の視座を重視し、平和のこと、市民社会の運動のこと、そして企業倫理というものについて、発題と議論が起こされた。
何度か本文中に登場したと思われるが、内村鑑三の言葉「死魚は流れのままに流れるが、活魚は流れに逆らうものである」が、まず心に張り付く。隅谷先生が折に触れ引用したらしい。内村鑑三らしい言葉でもあると思うが、私のスピリットでもある。ちやほやされるのはまっぴら御免である。キリストに出会う前は、そういうこともあり、喜んでいた。だがいまは違う。むしろ、ちやほやされているクリスチャンがいたら、問いを突きつけたくなる天邪鬼な精神が表に立っている。
それはそうと、隅谷三喜男先生の訴えてきたことを、いま私たちがどう活かすべきか、そこに重きを置いてずっと話が続くのは、大したことなのだと思う。時にそれは「先生」と慕う気持ちから、必要以上にありがたがる雰囲気も零してくる。だが、本書には、「隅谷先生への疑問・批判・注文」という一幕もある。この公平さが、シンポジウムの価値を高めていると思う。
妻である隅谷優子さんの挨拶もあった。これは珍しいのではないだろうか。家庭生活の目からの見え方もないわけではないが、社会的意義について適切に理解している様子がよく伝わってくる。二人して、世に問いかけていたのだというように思う。そのことは、私もまた、自分の妻に支えられていることから、よく分かる気がする。
終わりに「未発表原稿」が見いだされたのも、特異であろう。それがまた、最晩年の隅谷先生の心意気を感じさせるものである。近い将来こうなるのでは、という懸念や心配もそこにはあり、また現実は先生の危惧する以上の社会変化が起こったのであるが、それを現実の中にアレンジして受け継いでいくのは、同じ祈りを祈ることができる私たちの使命となるであろう。
代田教会牧師が「総括に代えて」と題した文章を終わりのほうで掲げているが、これがまた素晴らしい。もちろん本文を全部読んでからここに至ると、感動が増すのではあるが、もしお忙しい読者であれば、ここだけ読んでも、得るところが大きいと思われる。隅谷先生のことも分かるし、私たちへ突きつけられた課題も知ることができる。「プロテスタント教会の礼拝は罪の悔い改めが少な過ぎる」という問いかけが、隅谷先生から直接幾度も向けられたそうである。教会が社会的発言をすることにも意義はあるだろう。だが、それがこの罪性の問題を蔑ろにして、ただ社会問題を論じるようであってはならない、という根柢の考えを示すものであると理解した。隅谷先生自身が、自分は罪のことを大きく取り上げないが、それがあってこその、社会や経済についての発言をしているのだ、と分かるのだ。
教会の中の安全なところにいて、高みに立ってこの世を批判するようなことの多い、現実の教会に、はっきりと釘を刺している。私は全くその通り、それこそ気に留めなければならないことなのだ、と考えている。私は社会や経済についての知識がないから、肝腎の世への説得力は全くないのであるが、こうした励ましに、自分にも何かができるに違いない、という新たな思いが芽生えてきた。こうして私は自ら「活魚」となるべく、いまここに置かれていることを知るのである。