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『今、教会を考える』(渡辺信夫・新教出版社)

戦争の罪責問題を扱っているというので、読みたくなった。新刊はなさそうだったが、幸い、古書で定価の3分の1の価格で入手できることが分かったので取り寄せた。美本だった。そして、読み応えのある本だった。また、私の期待を裏切ることがなかった。
 
1997年発行。表題の文字の一部のようにして、「教会の本質と罪責のはざまで――」と書かれてある。これもタイトルに入れるべきかとは思うが、さしあたり大きな文字のほうを題とさせてもらった。確かに、本書がただ漠然と「教会」について考えているのではないということは、特徴的なことであるのだが。
 
渡辺信夫牧師は、京大の哲学科を出ている。この時代の牧師の中には、哲学科を経験した人が多い。だからこそ、物事を考えるにあたり、しっかりしたものがある。論理的であり、また、基礎を問うことについて慎重な手続きをとるのである。2020年に亡くなられたことを聞いていた。私は、カルヴァンの『キリスト教綱要』の訳者としてしか存じ上げなかったが、こんなにも重大な問題を自身のライフワークとして抱えていたのだということを、今回知って、ぜひ読みたいと思ったのである。
 
太平洋戦争では、将校として任に就いた。クリスチャン・ホームに育ち、信仰ももっていたが、その時には、日本国民として務めた。それはまた、信仰者として国に仕えるのは当然だと教えていた教会の問題でもあったということを、戦後、深く考えるようになる。そうして、国家という対象と共に、そもそも教会とは何かというところを問う必要に迫られたというわけである。
 
この方の背負った重荷について、私がここで要約して伝えるという気にはなれない。そんなに簡単なものにまとめることができないはずなのである。
 
収められたのは、それぞれ長い論文である。いや、協議会や研修会など、キリスト教関係の催しにおける講演が集められている。これだけを語ったというのは、相当に長い時間を必要としただろうと思う。
 
自身の悔い改めが混じる。それから、教会について、痛烈な批判が飛ぶ。これほど強烈な教会批判というものには、なかなかお目にかかれない。私の思いと重なる。ただ、私は戦争体験がない。言葉に加わる重みは、全く違う。この方の言葉は、自分の人生に重大な過ちがあったこと、それは行為のみならば、思索の中に、考え方の中に、巣くっていたことを全身で悔やんでいる。だからこそ、その言葉に力がある。
 
教会の欺瞞を、恐ろしいほどに、そして自らの痛みを以て、言語化している。そう、取り繕う表向きの笑顔の陰に、どれほど醜いものがあるか、を暴露している。そもそも教会の中に、そのような欺瞞や裏切りがあるということを、教会自身が自覚などしていないということをこそ、また問題とする。
 
これは戦後50年というあたりの情況である。いまそこからまた四半世紀が過ぎているという中で、私はこれを読んだ。時代は何も変わらない。というより、もうこのような批判そのものが、過去になっている。呼び戻さなければならない。忘れてはならない。戦争についての理解も、もちろんそうである。同時に、教会のしてきたことへの追及が、なされなければならないと思う。善人面をし、正義の味方気取りでいるその思いが、どんなに危険であるのか、知らなければならない。気づかなければならない。確かに世界の問題を指摘するのは大切だ。だが、よく見れば、悪いのは常にある国であり、政府であり、法律である。教会自身が悪いという発想が、全く見られない。何故か。簡単だ。教会に悪いところがあるとは、全く考えていないからだ。ここが、最も危険だという所以である。
 
本書をテキストとして、耳を傾け、行動に移すならば、まだ日本の教会には救いがあると思う。しかし、それなしに、やれ閉塞だとか、政府が悪いとか、そんなことばかり叫ぶのであれば、もはや救いの道は閉ざされてしまうだろう。クリスチャンと名のる者たちによる暴力が、真の教会を破壊するだろう。
 
本書は、もっと辛辣に、事実を指摘している。それが空中に浮かないのは、著者自らが、痛みを覚える中で、呻いているからである。そして、共に苦しんでいる、主イエスがいる。その信仰があるからこそ、これらの言葉には、命があると言えるのである。
 
さあ、この表題の「今」が、私たちが本書に出会った「今」のことに、なるのかどうか。これを知った私が、「今」問われているのである。

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