![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/160137272/rectangle_large_type_2_c45a5f40323d2b9fdc4ce7479a2ae41a.jpeg?width=1200)
天動説の復権
不思議な設定から始まる「烏は主を選ばない」に続いて、NHKの23:45からのアニメ枠は、「チ。――地球の運動について――」を2024年10月から放映している。地動説を巡る知にまつわる物語で、多くの人の血が流されたことを背景に描かれている。史実ではないが、当時の空気を、おぞましくも厳しく描いている。特に、異端審問官の声が津田健次郎なのは、実に怖い。
中世の教会は、天動説を教義としていた。神が選んだ人間とその住む地球は、聖書が記している通りに、世界の中心であるはずだった。創世記を読んでも、まず大地があって、それから天に光るものが置かれている。これを神の書として地を支配していた教会としては、これに異を唱える者を許すことはできなかった。
エジプトのアレクサンドリアにおいて、2世紀に生きたプトレマイオスが整えた天動説は、その後長く文明国の思想を支えた。古来、星の観測は重要であった。それは時を知り、暦を決定した。観測技術は、肉眼で見たにしては非常に精密であった。
空の星は年周運動をする。だが、その運動に従わない幾つかの星が観測される。他の星は決まった動きをするのに、それらの星は不規則に空を行ったり来たりする。あちこち動き回ることから「遊星」、あるいは惑う動きから「惑星」と日本語では訳された。地球を中心にすると、他の星は一定の軌道で説明できるが、惑星たちは、規則的な説明が困難であった。だが、規則的な軌道の周をさらに廻るような複雑な円を描くことによって、うまく説明ができた。このようにして、惑星もまた、地球中心の世界観の中へなんとか組み入れることができた。
しかし、4世紀末に同じアレクサンドリアにいた女性学者ヒュパティアは、天文観測にも秀でており、地動説に気づいていたのではないか、と映画「アレクサンドリア」は解していた。ヒュパティアについては資料があまりにも少ないので、その確証はもてないが、キリスト教徒に惨殺された彼女について、キリスト者はもって関心をもって知るべきだと私は考える。
地動説で考えれば、惑星の軌道もまた、実に単純に描くことができる。自然の法則は、美しくシンプルに説明できるというのが地動説のメリットであった。教会はこれを許さず、異端説を唱える者たちは、神を否定する者として死刑台に送られた。アニメの「チ。」は、そういう場面から描き始めていた。
描写は、教会を揶揄しているように見えるところがないわけではない。確かに、いまとなっては、教会が無知であった、というように評価するのが常識となっている。私たちはいま、地動説を信じている。しかし、私たちの目には、太陽が東から昇り、西の空に沈むようにしか見えない。見かけ上は、天動説の生活をしているのである。日常語も、そのような言い方をする。私たちの感覚からすれば、自分が時速1500kmで回っている、などというふうには決して捉えられていないのである。
天動説をとると、運動の説明ができないわけではないのだ。ただ、非常に複雑になるだけである。地動説をとると、地球を含む星の運動について、それほど複雑にならないスッキリとした説明ができる、というだけのことなのだ。宇宙の中に「中心」をとることの困難があるせいもあって、さしあたり地球が中心であるとしても、それは相対的な見方の違いに過ぎず、太陽が宇宙の中心だ、と考えるのもまた仮想の物語であるにすぎない。
その後の地動説においては、キリスト教徒たちがその理論を見出し、打ち立てていった歴史もある。自然は神が書いた書物である、というような見方をすることによって、教会に反することを言えば危険であった時代を過ぎて身の安全が保証されると、次々と当たり前のように地動説が理論化される。自然をシンプルに説明すること、宇宙には美しい法則があること、それは神を称えることなのだ、という捉え方がまかり通るようになっていったのである。そして、私たちはこの地動説を理性によって「信じて」いる。
だが一方で、天動説は、依然として日常生活の中で言葉にするときに使っている。先ほどそのことを指摘した。私たちにはどうしても、そのようにしか見えないからである。
私もまた、自分からしか世界を見ることができない。私が世界の中心出ないことは、理性では理解している。しかし、世界は私からしか見ることができない。私から見える景色が私の認識のすべてである。だから、たとえばSNSで自説を自慢そうに唱える人がいるのを見たとき、「この人は間違っている」と私の中で断ずることも度々あるが、それは私の方が間違っている、という場合も当然あるわけだ。それが後に自覚できて反省することもあるし、どうにもその人が間違っているという見方に留まる場合もある。
私という軸を、私は離れることができない。しかし、理性的見解として、私でない何かほかのものが世界の中心である、ということを「信じる」ことは可能である。地動説を「信じる」のと同様である。では、地球にとりさしあたり太陽を宇宙の中心に置くのが通常であるのに比して、私たちの認識において、さしあたり何を世界の中心に置くとよいだろうか。
誰か特定の他人個人に置くと、その人を偶像的に信頼することになる。では、社会というものがよいだろうか。世間が中心である、とするような暮らし方が、古来日本人に馴染みのある方法だったのかもしれない。国家が中心だ、とした歴史を私たちは痛みを以て思い起こしもする。国家が、天皇が、世界の中心で絶対者となった。カルト宗教なら、その教組や教義が、絶対の中心であろう。人は、自分から見える景色を否定してまでも、そうしたものが中心にある世界像を「信じる」ように仕向けられているようである。
狭い学校社会の中で、特定のいじめのリーダーが世界の中心になるとき、それから弾かれると自分の居場所がなくなる、そういう悲しい事例も多々ある。キリスト教会でさえ、誰かの言うことが中心になると、その人がどんなに歪んだ信仰をもち、あるいはとても信仰とは呼べないようなものしか有たないようであっても、その教会の教義が絶対になってしまうことがあるのである。
自分でないものを中心とする、あるいは軸とする、その必要性はどこかにあるのだが、それをどこに置くか、は慎重にならねばならないであろう。聖書にいわば帰依するというのは、聖書に、あるいはそれが指し示す神、もしくはイエス・キリストを、中心にする、ということにほかならない。神を基準にすることで、私から見た世界がすべてではないことを知ることができる。それがキリスト者の信仰というものである。
ヒューマニズムという言葉がある。耳に聞こえのよい言葉である。しかし、それを「人間」という意味に理解するとき、その「人間」とは何であるか、そこは確かであろうか。騙される可能性がある。誰か人を操ることに長けた者が、言葉を用いて、「人間」という意味をすり替えて、いつの間にか恣意的に、世界の中心を自分の思惑通りに起き、人がそれを「信じる」ように仕向けることがあるからである。
ちょっとした詐欺により、人を丸めこみ、何百万円も何千万円も振り込ませるような詐欺が実際に起こっており、終わる気配がない。人を丸めこみ、人の命を奪うような者も、この世界には存在している。地動説だから「信じる」のは当然だ、という思い込みが、人にはあるからだろうか。そうなると、ある意味で、天動説の復権が意識されてよいのではないだろうか。
1755年の今日、ヨーロッパで教会への信仰が崩壊するに至るきっかけとなった地震が起こった。リスボン大地震である。古い万聖節に、ふと考えてみた次第である。