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『科学史家の宗教論ノート』(村上陽一郎・中公新書ラクレ)

科学史家として尊敬する教授である。東京大学や国際基督教大学などでの活躍が際立つ。素人にも分かりやすく、科学の考え方や歴史を紹介してくれ、そうしたものは私を随所で助けてくれた。
 
ずいぶんと年齢を重ね、ここへきてついに、と言ってよいかと思うのだが、「宗教」の問題を著すに至った。カトリック信仰をお持ちだということは有名であったので知っていたが、それを具体的にまとめて語る場に、私は遭遇したことがなかった。「あとがき」に、『エリートと教養』の中で「しくじり」をした、と告白している。文明評の意味もあて清々しい本であったが、そこで、次に宗教を考えたいというようなことを書いていたというのだ。それを、同じ新書で果たすときが来た。そうした意味でのこのタイトルであり、内容である。
 
客観的な科学をフィールドにしてきた方である。宗教についても、必要な説明の場はふんだんにつくっている。だがまた、ここにもしかすると人生の総決算のような思いをこめていたのかもしれない、宗教について、自身のもつものを、はっきりと吐露しようとしている気持ちが窺えた。事実、本書の最後で、自分の宗教観をきちんと述べている。また、解説の途中でも、自分の宗教的な捉え方については、ちらりちらりと分かるように見せていた。というより、事実と意見とを、明確に伝えていた、と言ったほうがよいかもしれない。
 
本書では、「まえがき」において、『カラマーゾフの兄弟』の話と、遠藤周作とが登場する。プロテスタントではない作品であるところがよいのかもしれないが、とても科学史や科学哲学で筆を揮っていた人の口調ではない。そして確かに照準を見据えている。「宗教」とは何か。いきなり直球をぶつけてくる。それは、「信仰」と、そして「文化」とに関わるものにであることを、明らかにしている。
 
この「文化」という言葉の重みは、読んでいく中で益々強く感じられてくる。そのとき、日本文化にも言及されることが多い。それは、決して軽く見るようなふうではない。たいへんなリスペクトを払っている様子が伝わってくるのである。そうやって文化を交える形での説明が、自然であるのに、とても深いのだ。
 
たとえば私がハッとさせられたのは、spiritのことである。聖書で「霊」と訳される語は、別の場面では「風」または「息」と訳される。礼拝説教でよくそのことは説明される。それを幾度も聞いていると、そうだよね、というふうに当たり前のことのようにこの意味を再生することができるようになる。だが本書では、「息をすること」は「呼吸すること」であり、「生きること」だとつないでくる。「生きる」は「息」と音韻が殆ど同じであるわけだから、この「息」という語には、「生命」にも通じる意味が生まれてくるのだ、と流れてゆくのである。日本語による説明だから、こうした説明は、欧米の神学を基にする説明からは生まれてこない。また、読者に配慮して、英語のspiritでそれを表現していたが、ここからもまた別のつながりが生まれる。アルコールである。漢語でそれは「酒精」と書く。この「精」がspiritであるのだという。そこからまた「精気」という概念を想起させ、この「気」という考え方は、「霊」「風」「息」を貫いているのである。私たちが「空気」と呼ぶのも、そのためである。
 
実はその後、「プネウマ」も実際に持ち出して、さらに広く、また深く、こうした関係を「心」にも結びつけながら、「生命」と結びつくことを、生き生きと伝えてくれる。これは一例であるが、このspiritが「信じる」ことへ、そして「宗教」というものへと流れてゆくのは、神学的にどうかという点は別として、説得力のあるものでもあるし、なにしろ著者本人が、そのように確信している、という姿が浮かび上がってくる、生き生きとした説明であるように見えて仕方がないのである。
 
こうして「宗教」というものがどういうものであるのか、読者を誘ったら、一般社会で話題になることもある「オカルティズム」とはどういうことなのか、それも気にして説く。そのうち、仏教の話も持ち出して、人間の「欲望」と「禁忌」を主題に挙げるが、いずれも「宗教」のフィールドで捉えるべき事柄である。
 
キリスト者にとってはとりたてて読み込む必要がないかもしれないが、「聖書」についてしばし基本的なところから説明もする。但し、そこに「クルアーン」についても言及がなされ、イスラム教についての考察からも、教えられるところがあった。インドの「ヴェーダ」にも目を向けるから、やはりこれは「宗教論」という言葉に相応しいものだと思う。
 
国家や信教の自由についても触れるが、本書はウクライナとロシアの戦争や、ガザ地区へのイスラエルの攻撃の真っ只中で書かれてものであるため、それらにも触れることがある。
 
こうして「宗教」のいろいろな側面について述べてくると、今度は「宗教」の逆のことも考えておかねばならない。「無神論」や「反神論」も、簡単ながら言及する。そして、これも簡潔にではあるが、本題としての「科学」と「宗教」の関係にも触れる。但しこのあたり、紙数の関係もあるのか、科学史を説くというのではなく、自分の信仰観を強く押し出すようになってきている。具体例としては、「ルルドの奇跡」について幾らか詳しく述べるのであるが、そもそも「自然科学」は「こころ」に立ち入れるものではないこと、そして世界は「自然科学」では理解できないことを、難しい証明や証拠によってではなく、簡潔に語る。それらはもはや論理的に十分な根拠を示して語ることのできないものだが、読者がそれぞれここから考え始めるためには、とてもよい問題提起となるであろう。
 
最後に「信仰と私」として、自身の宗教観を、的確にまとめて語ってくれている。科学者としての立場と、カトリック信仰との関係を、このような形で明確に示してくれる人は、そう多くない。何故カトリックなのか、というところも話してくれている。その正体は、ここでは明かさないでおく。直接本書と向き合って聞くのがよいと思う。
 
本書一冊が、恰もひとつの説教であるかのように、心地よく流れていった。途中で見られたような、日本の宗教や文化への寛容な姿勢のわけも、最後までくれば謎が解けるのであるが、そのような日本社会において、そして教育の現場において、それでよい、という態度を取るのではあるにしても、著者は、まだ何かひとつの楔を打ち込みたいという熱意も伝わってきた。それを「小さくとも風穴を開けること」はとして表現もしていた。著者の願いの穴を開けるのは、恐らく著者ではない。これを読んだ読者である。そう、私なのである。

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