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労働と組織

夏期講習が終わった。労働条件について、会社も何か考慮したのか、あるいは外部から要請かあったのか知らないが、朝晩時間が短縮されたのはありがたかった。12時間拘束というのも当然だったのが、最大10時間余りになったのは大きい。
 
尤も、その分生徒の入れ替えが慌ただしくなり、混雑することもあったし、生徒とゆっくり話をするような時間が削られたとも言えるが、そこは工夫と要領ということでカバーすることも可能だった。
 
暑い夏だった。甲子園の夏の高校野球大会もずいぶん苦労して運営されたようだが、冷房を使うことができる以上、夏期講習は、暑さそのものは回避できたと言えるだろう。通学の生徒たちが暑い中やってくる、というところだけ辛抱してもらえば、後はなんとかなるのだった。
 
休日まであと2日、あと1日、などと心の中でカウントする自分がいる。今日を乗り切れば明日は休める、それを励みにいまを突っ走ることができるのだ。
 
だが、労働によっては、明日も明後日も休めないということがある。「過労死」は、そのまま外国にも通用する単語になってしまうという、悲しい現実があるが、労働条件はそれなりに建前があるものの、実情として命を削って働かなければならない事情にある人は、依然としてなくならない。
 
労働――それついては、いま私たちが思い描くものが、唯一正しい捉え方でもないし、人類の歴史に普遍的であったわけではない。時間で切り売りするような労働力を提供することは、当たり前のことではなかった。拘束時間を増やさねば支払えないような社会制度の中で、近代の労働は、「自由責任を負わされた奴隷制」のような状態にある、と捉える人がいる。私ですら、そんな意見を聞くより以前から、そのように考えていたのだから、このことに気づき、批判していた人は、数限りなくいることだろう。
 
企業に入社試験で、作文の題材として、よく用いられるものがある。私もそれを書いた。テーマは「仕事と個人」のようなもの。仕事を自分の楽しみのための道具として利用する、というような考え方を許さない態度が、ありありと見える。自分が、自分というものを如何に棄てて、仕事に奉仕することができるか、という点を明らかにさせようとするものである。
 
農業的精神がDNAにしみついているのではないか、というこの風土では、皆で協力することで初めて社会が成り立つものという前提を有している。わがままを言ってはいけない。皆が一丸となって事に挑むのだ。そうしないと、農耕作業はできないのであるが、農耕に限らず、あらゆるビジネスが、仕事が、その原理を暗黙の前提としているのだ。
 
やがて組織というものが構築されると、組織を生かすために、一人ひとりが歯車となる。壊れたら別のものと取り換えて、組織の生命は維持される。壊れた部品は棄てられるだけである。「ブラック・ジャック」のある話に、「会社のために汚職の罪を背負って死ね」と命じられる社員が登場していた。当人はそんなものなのだ、とトボトボ歩いていたが、待てよ、と気づく。そんなことがよくあった時代である。
 
トカゲの尻尾切り、というような捉え方を、手塚治虫は批判したのだろうと思う。「組織」というものは、本当は生き物ではないのだが、それが恰も普遍的で君臨すべき生き物であるかのように振る舞い始めることを、私たちは歴史の中で学んできたはずだ。ごく一部の権力者が、大多数の「奴隷」たちを意のままに取り扱うことができた歴史というものを。また、民主的などという美名によって、実はそうした制度を民主的に支持することで正義として構築することのために利用されてさえいるという歴史というものを。
 
「教会」というものも、そのような意味で「組織」として成立してきた。そういう「組織」になってしまったものがある。人間は、たとえ聖書というものを与えられても、聖書をすら、人間の欲望の道具に用いてゆくことができるのだ。そのような人間がどうなるものなのか、それを聖書は本当は描いている。聖書を信仰する、ということは、そこのところのトリッキーなレベルを、超えたところにこそ存するものであるはずなのだ。いちばん怖いのは、そういう自己認識を欠く精神である。自分たちはこれでいい、と自己義認してしまうとどうなるか、私たちは歴史をもって学んでよい。

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