霊の火に照らされて
新年礼拝、と呼ぶ教会もある。新たな年をカウントする人間の習慣に基づくが、古代イスラエルも、新年という捉え方はあった。「この月はあなたがたの第一の月であり、一年の最初の月である」(出エジプト12:2)などと主がモーセに言い渡している。いまでいう秋頃、イスラエルのカウントからすれば第七の月であるという。これは、七日目の安息日に因む、とも考えられている。つまり「聖なる月」とされるのである。ここには、農業的な意味や歴史的事件にまつわる意味はないとされ、専ら神と人との関係の中で捉えられる祝日のように扱われているようだ。
その説教は、「ローズンゲン」の説明から始まった。その意味や背景自体は、他でよく説明されているから、ここでは繰り返すことは避けよう。一種の「くじ」という考えから、「日々の聖句」が選ばれ、ドイツのキリスト教徒が毎日聖書に触れることができるように配慮してある本である。
説教者が、昔、加藤常昭先生と海外で同室の宿をとったときの逸話が紹介された。まだ若かったこの説教者は、非常に緊張する。が、期待ももつ。生活を共にするという、またとない機会だ。加藤先生と、朝共に祈る機会が与えられた。どんな祈りだろうか。――すると、「ローズンゲンを読んでください」と言われたという。先生自身は、「ブルームハルトの夕べの祈り」を読んだ。
これで終わり。朝の祈りは、この朗読で終了したのだそうだ。もっと長くあれやこれやと祈るのかと予想していたために、説教者は驚いた。訳を訊くと、先生は軽く答える。「一日中祈っているからね。」
今年2025年の『日々の聖句(日本版ローズンゲン)』は、「年の聖句」を次のものに定めている。
すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。(テサロニケの信徒への手紙一5章21節)
そこで、この2025年の最初の礼拝においては、この言葉と、その周辺の箇所が開かれることとなった。
教会には、今日もクリスマスの飾り付けがある。伝統的に、1月6日までを、クリスマスの時期とする習慣に則ってのことだが、先週の礼拝で、世間がクリスマスがもう終わったものとして扱われていることを指摘したことも関係しているだろう。否、世間どころか、教会でも、年が明ければ「あけましておめでとう」の言葉が飛び交い、もう誰もクリスマスの話題を口に出さなくなることがしばしばである。教会もまた、もうクリスマスなど過ぎ去ってしまったかのように扱っていることが、先週は指摘された。
だからせめてこの日もまた、つまり新しい年の初めの礼拝においてもまた、クリスマスの賛美歌を歌おう。キャンドルも飾ろう。そうした信仰の姿勢を、教会は示していた。
そして、会堂には、星の飾りが大きく目立つようにさがっている。「ヘルンフートの星」だという。この星の意味にもまた、説教者は触れる。18世紀に宗教難民として東へ追われたモラヴィア人たちが、ヘルンフートに入植したことに始まった、ドイツのクリスマスの習慣であるという。
さて、聖書の言葉の説き明かしがここから始まるが、テサロニケ書第一からは、7つの勧めがハイライトとなる。
16:いつも喜んでいなさい。
17:絶えず祈りなさい。
18:どんなことにも感謝しなさい。(これこそ、キリスト・イエスにおいて/神があなたがたに望んでおられることです。)
19:霊の火を消してはいけません。
20:預言を軽んじてはいけません。
21:すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。
22:あらゆる悪から遠ざかりなさい。
括弧付けは付け加えている。その括弧を一旦除けば、7つの項目がきれいに並んでいる、と見なされる。但し、括弧の箇所は、18節の説明だと見えるけれども、これを19節とつないで読むこともできる、と説教者は教える。そのように読むと、ここには、「キリスト・イエス」と「神」、そして「霊」が並ぶことになる。言うまでもなく、三位一体の捉え方が可能になる、ということだ。
さらに、ユダヤ文学では際立つ「囲い込み構造」を、この7つの句に適用もして見せてくれた。中央に主軸となるものがあって、その前後が対称的になっている、という構造である。特にその中央の重視という点に注目すると、ここでは「霊の火を消してはいけません」というところを基礎に据える読み方の可能性が現れてくる。
クリスマスは、御子イエス・キリストを世に神がくださった、という点が目に見える。しかし、イエスの姿が永遠にそこにあるわけではない。人としての姿を、歴史の中の得意な点で示した神は、その後の世界には、聖霊という姿で臨んでくださったことになる。
私たちが、どうして神を信じることができるのか。どうしていまこうして礼拝に集うのか。思えば不思議なことである。それを導きもたらしたのは、正にこの聖霊だ、というわけである。
聖霊については、非常にドラマチックに捉える向きもある。ペンテコステの炎は、確かに聖霊が、いわば派手に降りてきたという記録である。これを特に強調するグループもあるのは確かだ。しかしまた、それがすべてでないことも、聖書は伝える。説教者は、復活のイエスがエマオへの道で現れた出来事を想起させる。出会った人物がイエスだと分かった時点で、すでにイエスの姿は見えなくなっていたが、二人の弟子たちは、自分たちの中に確かに熱い炎が燃えていたことを知るシーンである。
後になって分かる、静かに燃える炎、というものもあるものなのだ。
説教者は7つの先の言葉を一つひとつ丁寧に辿るが、このレスポンスとしては、やはりその中心たるべき、「霊の火を消してはいけません」を基に、語られた福音を噛みしめてみようかと思う。
聖霊が、どうか私の主人でありますように。そもそも神を「主」と呼ぶことがあるのは、神が主人である、ということを表すはずである。そのとき、自分は「僕」であることになる。否、「僕」という訳はまだソフトに聞こえかねない。「奴隷」とでも呼ぶと、一層真実味が増すであろう。
聖霊が神でもあるのなら、聖霊が主人で、私は奴隷であるはずである。だが、実際はどうだろうか。これを、ある人の表現だというが、「主人」という上品な言い方を、説教者は「ボス」という言葉に換えて語ることにした。聖霊は、「心を支配するボス」であるはずなのである。
私の「ボス」は、誰であろうか。私の心を支配するものが何であるか。些細なことであるかもしれない。誰かに言われた言葉が、私の心を傷つけた。それを忘れることができない。そこから離れることができない。そのとき、その言われたことが、私を支配していることにならないだろうか。
この1月、「100分de名著」というEテレの番組で、安克昌の『心の傷を癒すということ』という本が取り上げられている。私も幾度も言及しているのであるが、ぜひご覧戴きたい。阪神淡路大震災のときに、傷ついた人の心のために奔走した、若い精神科医のことを紹介する。と同時に、人物紹介ではなく、世の中の「心の傷」をもつ人々のために、何か助けにならないか、という願いと共に、番組がつくられている。すでに私はテキストを読んでいるし、もともとこの『心の傷を癒すということ』という本や、安克昌さんに突いては知るところの多い者である。また、その師である中井久夫先生についても、幾らかの本を読んでいる。そして、この本を紹介する宮地尚子さんは、「心の傷」を専門としている精神科医でもあり、たとえば同じNHK出版から『傷つきのこころ学 学びのきほん』という、非常に読みやすく分かりやすい小冊子も提供している。
阪神淡路大震災から30年となる、この1月17日に合わせて取り上げられたものと思うが、能登半島地震から1年を経たことで、心の傷を抱える人がいまもたくさんいることを鑑み、この番組により、できればその方々への心の癒やしにつながればよいと願うし、当事者でない人々も、少しでも理解を深めていけたらと祈る思いである。
私の「ボス」になり得るものとして、そのような外部の存在も懸念されるのだが、他方、「自分」というものが自分のボスになっていないか、これも深刻な問題である。これは気づきにくいのである。時に神をも利用する勢いで、自分がボスとなることさえ、ありがちなのである。否、そうした状態であるばかりなのかもしれない。私が自分を神として振る舞う、それは、神と出会う前は、当然のことなのであった。しかし、神を信じた、と思っている中でも、いつの間にか「すりかわり」が起こり、再び自分が神となっている、ということは、大いにあり得るのである。
説教者は、「誰が主人なのか、分からなくなっている」という「人間の悲惨さ」を指摘した。そして「ボス面をする奴が私たちを引き裂こうとしている」と警告し、だからこそ、ここでも「互いに平和に過ごしなさい」と指摘されていたのだ、と告げる。
説教の終わりに向けて、「私的なことで申し訳ないが」と断りつつ、説教者は自身の生活の中での出来事を話した。それは、親の介護のことである。プライバシーに関わることでもあるから詳述はしないが、比較的近くに住まうとはいえ、親の介護について、多くの方々の世話になっていることを明かす。医師や看護師などの医療従事者はもちろんのこと、介護ヘルパーや、ケアマネジャーなど、それぞれの立場や役割から、日々助けられていることを言う。
そのすべてが、クリスチャンであるわけではない。むしろ、少数であろう。説教者はここから、「世界はよいもので満ちている」と、感慨深そうに語った。神がつくったよきものを、人の善性の中にも見るようなものだと思えた。そして、申命記を引用して、命と死とを目の前に置き、ひとにそれを選ばせる神の姿を指摘した。それは、神が人間に自由を与えた、ということを含意するものであった。
「自由」という概念は、非常に深く、また広い。一言で言い切れるような代物ではないし、簡単にそれを用いて物事を言い切ってしまうことはできないもの、と私は捉えている。だが、だからといって「自由」について何も言わないでおこう、という態度を推奨するつもりもない。私たちはその都度、その場において、別の意味の「自由」を持ち出してゆくしかないのだ。
ただ、それを自分の都合の好いように、そして相手を自分が支配しようとするために用いるか、それとも、自分を戒め、相手の益になるような使い方をするか、そこに違いがあり、また意義がある。ひねた見方をすると、そこにまた、「自由」がある、とも言える。神は、その「自由」の使い方について、人間を見つめているのであろう。おまえはその「自由」をどう使うつもりか。神は根本的には、そこを人間に対して要求しているのではないか、と私は思うことがある。
クリスチャンが善人である、ということは、教会生活をしていくうちに、信じ込まされていくところのある危険な考え方である。説教者は、そのような角度ではなく、ただ「よきもの」を神の創造との関連の中で、信仰篤く語ったと思う。だが私は、むしろクリスチャンの中にこそ、危険な要素がふんだんにあり、実のところ多くの場合に、ファリサイ化してゆくのではないか、と少しばかり悲観的である。世の人々の中に、敬服すべき善性を見出すことが多いと感じている。他方、クリスチャンと称する人々の中に、自らの加害性に無頓着で、自分の腹を神としているような人が現実にいることを、否定できないでいる。
単純に決められないにせよ、善い人と悪い人とについては、クリスチャンもそうでない人も、変わることがないのだ、と私は思っている。教会も人の世も、変わることがないのだ、と私は思っている。ただ異なるのは、自分に罪があり、しかもそれが赦されている、ということを痛感している者が、教会のクリスチャンの中に、確かにいる、という点である。命を棄ててそれを知らせてくれた方がいる。その方のことを知っている。知っているばかりではない。その方に、出会ったことがある。そしてその方が、いつも共にいてくださることを、ひしひしと感じている。
それはまさに、「一日中祈っているからね」という言葉に通じるものではないだろうか。霊の火に照らされて、見える世界ではないだろうか。