「自立とは、多くのものに依存できている状態だ」
自立はしたい。
でも依存はしたくない。
私もそう思っている。
買い物依存症、SNS依存症、スマホ依存症、アルコール依存症、ギャンブル依存症、ゲーム依存症、恋愛依存症など、「依存」というと病気のイメージにつながり、断ち切らないといけないと思ってしまう。
以前、私も好きな人を頼りすぎてしまい、一方的に依存してしまっていた。
四六時中その人のことを考え、相手にもそれを求めていた。私が勝手に持っている「好きならこうしてくれるはずだ」というイメージ通りにしてくれないと、相手を責めてた。私はとてつもなく幼稚だった。
相手の優しさと寛大さに救われていたけど、依存してしまう自分が薄汚く思えて、自分のことも責めた。
この自分の経験からも、「依存は悪いもの」という印象しかなかった。
同時に、「自立しなきゃ」と強く思った。「依存をやめて、自立しないと」と。
だからこの「自立とは、多くのものに依存できている状態だ。」という言葉を見たときに、「どういうことだ?」と違和感を持った。
この熊谷さんという方は、新生児仮死の後遺症で脳性まひの障害があり、車いす生活を送っているらしい。
東日本大震災の時、ビルから脱出するためには、熊谷さんにはエレベーターという依存先しかなかった。でも、健常者はエレベーターの他に階段やはしごという依存先があった。
このコラムを書いた神谷さんによれば、熊谷さんは次のように障害の本質に気付いたという。
同時に、神谷さんはこうも書いている。
私自身のことを振り返ってみても、好きな人を頼ることそのものは悪いことじゃない。好きだから寄りかかりたくなる。好きだから困った時に助けてもらいたいと思う。
でも、私は寄りかかりすぎた。
「信頼」の範囲の依存が行き過ぎて、いわゆる「依存」になってしまった。
当時から危機意識は持っていたけど、私には心の拠り所が少ない。暇な時間も多すぎる。
趣味もほとんどなく、心を開ける人が少ないから、仲良くしてくれる人がいると「依存」しがちになる。
依存して好きな人を困らせたくなくて、「何か趣味を見つけなきゃ」「もっと忙しくならなきゃ」「もっと友達増やさなきゃ」と思っていた。
やっぱり私が自立できるようになるためには、意識を分散させる何かが必要なんだと思う。
noteはそれに一役買っている。
人に依存するのではなく、自分の中に依存できる何かを増やせるといいな。