「七分は真面目人間、三分は不真面目人間で生活するのが『生きる智恵』」
親は子どもに「真面目になりなさい」と教えるものかなと思うけど、私の父親は「くそ真面目は良くない。人生、損する。」と時々言っていた。小さい頃はあまりピンときてなかったけど、今ではその通りだと思う。
真面目な母親の影響の方が大きかったのか、私もどちらかといえば真面目に物事を考えることが多かった。だから母親と二人で「どうしよう、どうしよう」と困っていると、父から「そんなに真面目になるな」「またくそ真面目になってる」などという声が飛んできていた。
例えば中学生の頃、夏休みの宿題に「指定された漢字をノートに1行ずつ書いて、その行が埋まるまで同じ漢字を書いていく」というものがあった。ノートは100ページの大学ノートで、行幅も指定されていた記憶がある。1行あたりの回数も、最低何回と決められてた気もする。
真面目な私は、もちろん指定された大学ノートを買ってきて、指示通りにひたすら漢字を書いていった。手を黒くしながら、知ってる漢字であろうが知らない漢字であろうが、ただただノートを埋めていった。
でも、そういう漢字や英単語の書き取りの宿題って、今は非難されてるんでしたっけ?そんなネットニュースを読んだ記憶があるようなないような、かなりおぼろげな記憶ですが、「知ってるものを書くのは時間の無駄」という意見がある。
だから、私の夏休みの宿題も、知っている漢字であれば、1行を埋め尽くすほど書かなくてもよかった。
いや、知らない漢字だったとしても、最低回数を書いていれば、1行の途中で終わってもよかった。
いやいや、最低回数も守らなくてもよかった。全体的にノートが黒く漢字で埋め尽くされていればそれで問題なかった。先生が1行ずつチェックするわけじゃないし。チェックするにしても、適当に開いたページの適当に選んだどこかの行。「最低5回は書かないといけないのに、この漢字、3回しか書いてないよ」と指摘されても、「え、そうでした?すみませーん」とかわす力を身につけた方が、よっぽど役に立つ。
他の同級生たちのノートを見ると、回数をごまかすのはもちろん、普段より字を大きく書いていたり、画数の多い漢字を意図的に飛ばして画数の少ない漢字を多めに書いていたり、あの手この手でごまかしていた。何枚かノートを破ってる人もいたな。きれいに破ればいいのに、ビリビリになったままにするから先生にすぐバレてた。
途中で断念して、最後の何十ページかが真っ白な同級生もいたけど、先生から「残りのページも埋めてきて」とノートを返されて終わり。
ちゃんと真面目にこなした人は、たくさん漢字を覚えられたという成果を手にしたかもしれない。でも、それも「漢字を覚えよう」と意識していればという前提で、何も考えずにただこなしただけの人は、漢字も覚えられなかったんじゃないかと思う。
手を抜いた人が「人生得してる」と言いたいわけではないけど、もし部活とか旅行とか他にやりたいことがあって、この漢字の宿題のせいでその時間が削られているのであれば、手を抜いた人の方が知恵はあるなと思う。
当時の中学生の私だって、学校、部活、習い事2つで忙しくしていた。(今の中学生はもっと忙しいんだろうな。)社会人になると、仕事なんて無尽蔵にあるわけで、限られた時間の中で優先順位をつけて片付けていかないと進まないし、終わらない。
すべてのことに真面目に取り組むのは、素晴らしいことだと思う。でも、十分に時間がとれなくて全く手をつけられない〆切間際の仕事が溜まっていったり、自分自身が心身ともにやられてしまったら、結局は周りの人に迷惑をかけてしまう。周りから白い目で見られたりなんかしたら、余計にメンタルを崩してしまう。
周りの仕事ができる人たちを見ていても、手を抜くところは鮮やかなくらい潔く手を抜いている。それでいて、重要な仕事は抜かりなくこなしていく。
私は小さい頃と比べると不真面目度は上がってきたけど、まだまだくそ真面目で、失敗したり損したりすることがある。
不真面目度を1割くらいで設定していたのがそもそもくそ真面目なんだろうな。目指せ、「真面目:不真面目=7:3」!