生酛本来の味に対する疑問 その4 幕末から昭和初期に掛けての社会の変化と食 本日の紹介酒は、大七 生酛純米(福島県) このシリーズの最終回です。
幕末には黒船が来航し、この頃にコレラが流行、また、安政の大地震と言われる大地震、1854年(安政元年)に今話題の東南海地震、1855年(安政2年)には安政江戸地震等の大地震が立て続けに発生し、江戸幕府が倒れた本当の理由は、外国から持ち込まれたコレラと安政の大地震と呼ばれる大地震が立て続けに発生した事とも言われています。一方で、この頃になると各藩の財政状況もかなり悪化し、米だけでは無く各藩で特産品、薩摩藩の黒糖や高知藩の樟脳等がとくに有名ですが、日本自体のGDPも黒船が浦和に来航した1846年(弘化3年)には、4兆5429億円、明治維新後の1874年(明治7年)には、5兆2388億円と幕末~明治の経済の規模は江戸幕府の管理では対応できなくなっていたように思いますし、初期の明治政府も旧来からの仕組みを組み替える事に当初は苦労しています。
※下記映像は、江戸時代の武士の食事自情がまとめられている動画です。youtube(Greta Waigelさんのページより引用)
江戸後期になりますが、化政文化の頃(1804~30年)は武士の暮らしがますます厳しくなっていく一方で、国全体の経済力が大きくなるにつれて、当然お金の動きも現代ほどではないにしても活性化してきますので、大都市の町人は可処分所得が増えます。そのような状況で、ぜいたくは敵だと言った処で誰も言う事を聞く訳が無いし事実1837年以降に行われ贅沢を禁じた老中水野忠邦公の天保の改革は失敗しています。一方で、江戸の飲食店のガイド本が出たり、菓子屋や食品の卸問屋のガイド本が出ていたようです。当時の大工の日当が500文(大体1文が30円位で15000円)仮に1か月22日働いたとして11,000文で330,000円、1か月の家賃が1000文(30000円)程度だったそうですから、現代の都市部で安い家賃で50,000円前後って考えれば、当時の約1.6倍ですから、22日働いていれば50万円位の給料を貰っているのとほぼ同じになってきます。
※下記画像は、東京都江戸東京博物館蔵「東都名所 高輪二十六夜待遊興之図」歌川広重画(まち日本橋HPより引用)
現代でも月50万円前後給料を貰っていれば充分高給取りですし、仮にボーナスが無い所で、年間の家賃が360,000円、しかも長屋の町会費以外は所得税が江戸の町人には掛かっていない。最も、全ての町人が日当500文稼げた訳では無いと思いますけど、町人には税金も無ければ、社会保険も、年金も無い。銭湯一回大人8文(240円)子供6文、寺子屋代が庶民レベルで年間諸経費合わせて3500文前後(10万円程度)って考えれば、生活するに充分どころか現代の都市生活者よりよほど贅沢な暮らしが出来るだけの可処分所得があった事が想像できますし、年間10万円で学校通えて、読み書きそろばん教えていれば、普通に識字率も上がり、商売に置いても、仕事に置いても比較的簡単に業務の改善が行われると思いますし、労働者としてのレベルも普通に高かったことが想像できます。
※下記画像は栗山善四郎著『江戸流行料理通』初編の挿絵。(所蔵:国文学研究資料館)ライブドアHPより引用
勿論、長屋の地主や商売人に対しては冥加金と言う所得税がかかりますけど、可処分所得が多くて、都市部では寺子屋で読み書きそろばんを習い、農村部でも当たり前に読み書きそろばんが行われていて、就学率は70~86%で当然のことながら識字率は武士階級で100%、庶民層でも50%以上で世界一(勿論、現代においても日本の識字率は世界一と言われています。)、19世紀に置けるロンドンの下層階級に置ける識字率は10%程度、イギリスの大都市における就学率は20~25%程度だったと言われています。現代でも日本の労働者の質は世界でも有数の高さだと言われていますし、サラリーマン社会における競争は非常に熾烈です。
※下記画像は江戸の街中のジオラマ 江戸東京博物館蔵(まち日本橋HPより引用)
その様にGDPで考え金銭的な部分で考えると1721年(享保6年)~1846年(弘化3年)までの一人当たりのGDPの成長は1.34倍で、それだけ見れば大したことないって話に成りますけど、社会が平和で労働者の5割以上が読み書きそろばんが出来る状況下であれば話は変わってきますし、市場に置いてはどの商売に置いても競争は厳しくなりますし、労働者同士の競争自体が激しい訳ですから、商品やサービス自体の品質がマーケットで厳しく審査されますから、お酒一つ取っても元禄期と化政期では全く別物になっていたと思いますし、市場に置けるブランド力自体が厳しく問われたはずですから、江戸後期に水車精米や宮水の発見、酒造りのマニュファクチャー化が行われた灘酒が普通に市場で強くなるのは当然ですし、社会が豊かに成るにつれて、封建社会の理不尽な部分に下級武士や農民、町人レベルで気づく訳で、江戸幕府の封建制度による管理制度は時代に合わなくなっていたように思います。
※下記映像は江戸時代のお寿司 サダクエスト / SADAQUESTさんのページより引用
実際、明治維新が起こり、天皇親政下の明治政府になってから起こった事と言えば、何よりもお金が全く政府に無かったんです。そこで福井藩で財政再建に成功した由利公正公が新政府の財政を担当し、太政官札(紙の紙幣)を発行したりして何とか財政を立て直そうとしましたけど、新政府開設当初は武士への禄の支払いがあった上に、各藩がまだ地方政府として存在し、銘々で徴税権を持っていたので、新政府自体の信用力が全くないものですから、太政官札は額面割れをするわ、中央政府に全くお金は無いわで、結局、藩を廃止し、四民平等で武家を廃止し、1872年に国立銀行条例が制定され、1873年に第一国立銀行が出来て、その後各地にナンバリングされた銀行が数多く出来ましたが、各々で銀行券を発行するものだから当然のようにインフレーションが発生し、収拾がつかなくなり1882年(明治15年)に日本銀行が設立され今まで発行された紙幣が回収され、銀行券の発行元が一本化されました。
※下記画像は日本銀行 日本銀行HPより引用
その間に、大名貸しで大儲けしていた上方の大商人は没落し、金融の街であった大阪自体もこの頃、かなり経済的に厳しい状況になりました。明治初期の政府にお金の無い状況で上方の商人から散々お金を取り立てていた状況下で、1871年(明治4年)に酒造りが事実上自由化され、それまでお酒で設けてきた商人は大きな打撃を受け、1832年(天保3年)時点での灘五郷と西宮の酒造株が約51.6万石あったのが、明治維新期の1/3減醸令や酒造株鑑札の書き換え等で、事実上灘の酒造家の特権が消失し、1871年(明治4年)時の灘五郷と西宮の造石高は19.3万石まで一時的に減少しました。また、江戸期からの銘醸地で有った堺は明治、大正期を通して反映し小規模ながら100軒近く酒造業者があり造石高は6万石を超えていました。
※下記映像はカラー化画像で蘇る明治時代の日本(Pearbookさんのページより引用)
1872年(明治5年)に新橋・横浜間で鉄道が開通すると、その後鉄道網は発展を続け、1889年(明治22年)には、新橋・神戸間が開通する等全国に広がっていきました。灘五郷と西宮の造石高もこの年には、約37万石まで増加し、この頃には東京だけでは無く、鉄道や汽船を利用し地方へも灘酒の進出が目立つようになりました。一方で、1899年(明治32年)に東京北区の滝野川に醸造試験所が開設され、1907年(明治40年)には第一回全国清酒品評会が開催され、1909~10年(明治42~3年)には速醸酛・山廃酛の技術が確立され、またこの頃に三浦仙三郎氏による軟水による醸造法を纏めた改醸法実践禄が公開される等、日本の産業の急速な近代化と共に酒造りの技術も急速な発展を遂げていました。
※明治村陸蒸気映像(明治村公式ページより引用)
明治から昭和初期に掛けての食の変遷についてですが、明治前期に置ける食生活の変化は、1872年(明治5年)に明治天皇が前例を破って牛肉を食べて以来、世間では牛肉食を文明開化の象徴とみなすようになり、当初は味噌で煮る牛肉の鍋焼きや、牛鍋から始まり、時代と共にカツレツやビフテキ、コロッケ、オムレツ等が都市部の過程でも作られるようになった。パン食も徐々に出てきましたが、まだ、おやつ程度に考えられていて、アンパンが登場したのもこの頃です。勿論、一般家庭はそれほど裕福では無かったので、普通に和食が食べられていたようですが、1884年(明治17年)に帝国海軍が脚気の対策としてカレーを導入し、兵士がレシピを一般家庭に伝え広まったようで、1893年(明治26年)には婦人雑誌で即席カレーの作り方が紹介されています。最も、この頃はカレールーはまだ出回っていなかったようです。その他大正時代にはコロッケも家庭料理として、都市部ではある程度広まっていたようです。
※下記画像は潜水艦うずしお特製チキンカレー(海上自衛隊艦飯HPより引用)
清涼飲料水として広まったのはラムネで、1868年(明治元年)にはラムネの製造が初めて行われ、現在のビー玉で栓をする方式は明治20年代に始まったようです。あの戦艦大和でも艦内にラムネ製造装置があったようです。その後1869年(明治2年)にはアイスクリームが日本で初めて製造され、1919年(大正8年)にはコーラとカルピスの製造が開始され、ビールは1870年(明治3年)にスプリングバレーブリュワリー(キリンビールの前身で1885年ジャパンブリュワリーカンパニーが設立しました)し、1876年(明治9年)には札幌に開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)が開設され、1889年(明治22年)には大阪でアサヒビールが創業される等、1900年までに100を超えるビール醸造所が作られ、1887年(明治20年)時点で約26,561石(この年の日本酒の醸造石数は約3,806,198石で日本酒の約0.7%の石数)、1919年(大正8年)時点で648,698石(1887年比の約24倍)、1939年(昭和14年)時点で1,734,435石(1919年比の約2.67倍)と戦前には明治20年比で65.3倍と大変な成長産業になっていました。
※下記画像は明治村浪漫麦酒(明治村HPより引用)
勿論、明治の初めの頃に比べるとビールの価格自体が下がった事も有りますが、明治の早い段階で炭酸入りの清涼飲料水が作られるように成ったり、昭和初期にビールが173万石製造されているのを見て感じるのは、日本人の新しいもの好きも有りますが、それ以上に日本の蒸し暑い気候を考えると、炭酸飲料やビールのような喉越しのスッキリする酒類に対して需要があったのが理解できます。一方で、カレーや肉じゃが、コロッケがどこの家庭でも自宅で作られ消費されている事を考えると一番日本の家庭での食生活に影響を与えたのは徴兵制度と識字率の高さが背景にあるように思いますし、昭和後期からの日本酒の低迷の原因に食生活の変化がよく言われますが、こうして見てみると明治以降から徐々に食生活の変化は起こってきている訳で、決定的に日本の食生活が変ったのが1970年(昭和45年)の大阪万博以降とよく言われますが、その前から食生活が変化する下地自体は作られていたように思います。
※下記画像は明治村のオムライス(明治村HPより引用)
上記のマガジンのパート3の部分で、「1910年(大正10年)の第8回の品評会の時点で、全国清酒品評会において目標とする優等酒の資格条件としてⅠ色沢淡麗で青みを呈し、Ⅱ香気芳烈、Ⅲ風味濃醇であることを掲げていました。一方、この頃の市場のニーズは逆に極力淡麗で飲みやすい酒が求められたように思われます。」と書きましたが、実際、明治後期~大正年間は比較的平和な時代で、食生活も以前よりかは豊かに成り、1909年(明治42年)~1935年(昭和10年)の間に日本の経済規模は2.3倍にまで成長しています。確かに農村部はまだまだ貧しかったのは事実ですが、昭和初期の日本は世界でも有数の先進国でしたし、都市部での食生活はかなり変化していた事が大正~昭和初期の家庭をモデルにした博物館の展示物からも理解できますし、昭和の戦争前にはある程度、国立大学や旧制の専門学校(主に今の私立大学)も整備され、大正時代から一部の大学や専門学校では、夜間学部も開設されていたようで、今ほどでは無いにしても努力すれば裕福に成れる環境は整っていたようですし、実際に私の祖父も大学は出ていませんが蟹工船から始まり、独学で甲種機関長まで上り詰めた方でした。
※下記画像は昭和初期徳島カフェノグチ店内の様子(徳島珈琲物語HPより引用http://www.awacafe.com/history/)
当然、徐々にではあるにせよ食事が変れば日本酒に求められる味わいも変わる訳ですから、市場のニーズが極力淡麗で飲みやすい味わいのお酒が求められたのは当然ではあると思いますし、現代の灘の生酛の味わいである、味に深みと柔らかさがあり、後味のキレが良くて爽やか、と言うのは現在もあまり変わっていないと思いますし、灘の大手蔵は現在でもそうですがマーケッティングが非常にしっかりしていて、ある部分に置いて灘酒の伝統を生かしつつ、消費者のニーズと先々の食の変化を捉えた味を造り上げてきたと思います。
※下記画像は櫻正宗酒造、昭和初期のブリキ看板(櫻正宗HPより引用)
これまで、生酛について書いてきましたが、私の生酛に関する見解は日本酒全体の伝統技法では無く、灘流伝統の生酛造り、その他の地域、例えばsakediplomaの試験に出て来る秋田流の生酛造り、能登杜氏伝統の山廃造り等、それぞれの地域性や食、地域の事情に合わせて造られたのが各地の名前を冠した伝統の生酛造りであって、必ずしも生酛造りが日本酒自体の伝統的な造りとは言い切れないと今回、食と経済、日本社会そのものを江戸時代~昭和初期まで検証してみて改めて感じました。
※下記画像は山卸画像(大七酒造HPより引用)
現在の日本の食生活や外食産業に一番影響を与えたのは1970年の大阪万博は食生活そのものと言うよりも、時代の変化に合わせた食のスタイルや外食産業の在り方に影響を与えたのであって、本当に日本の食に影響を与えたのは実は徴兵制度で陸海軍で作られていた食事では無いかなって感じました。
※下記画像は太陽の塔(万博記念公園HPより引用)
日本酒テイスティングデータ
銘柄 126、大七 純米生酛 (福島県)
主体となる香り
原料香主体、淡いハーブの香り有
感じた香りの具体例
炊いた白米、ヨーグルト、マシュマロ、すだち、ミネラル、スペアミント、千切り大根、若竹、瓜、若草、クレソン
甘辛度 中程度
具体的に感じた味わい
ふくらみがあり滑らかな飲み口、ふくよかで柔らかい旨味が主体、後味はキレよくスッキリ、ヨーグルトやスペアミントを思わせる含み香
このお酒の特徴
ふくらみがあり柔らかで後味のキレの良い醇酒
4タイプ分類 醇酒
飲用したい温度 20℃前後、45℃前後
温度設定のポイント
20℃前後にて、柔らかくふくよかで後味のキレの良さを引き出す
45℃前後にて、ふくよかで滑らかな味わいを引き出す
この日本酒に合わせてみたい食べ物
筍の土佐煮、野菜の煮付、カレイの煮付、鶏の照り焼き、鶏の炭火焼き、ブイヤベース、チーズフォンデュ、舌平目のムニエル、かす汁、大根の煮付等
お問い合わせは 酒蔵 https://www.daishichi.com/
Quora テイスティングブック https://jp.quora.com/q/nihonshu-te-isu-tein
※日本酒4タイプ分類に関しては、SSI(日本酒サービス研究会)の分類方法を引用し、参考としています。
※写真は製造元酒蔵様のHPより引用しています。
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