①本を読みました
4月からお仕事が始まるまでの間、長いお休みも終わりに差し掛かっています。
わたしはおうちにある積読をのろのろと読んでいます。
最近は、『メルロ=ポンティコレクション』(中山元=編訳)を読んでます。
この本は、修士2年のある日、なぜかアトリエに落ちていました。多分何かのどさくさで、誰か後輩が忘れていったものだと思います。持ち主不明で、誰も名乗り出なかったので、とりあえず貰っておきました。
わたしは気まぐれなので、いくつもの本を同時並行して、たまに完読したり、そのままにしたりと、割とだらしない読書をします。この本は、たくさんあるメルロ=ポンティの著作の中から、いくつかのトピックが編訳されているので、わたしみたいな人向きだと思い、少しずつ読んでいます。
その中でも、まず「表現としての身体と言葉」(『知覚の現象学』から)という章を読みました。あまり読書が得意ではないので、あとがきで解説してくれていて、とても助かります。
哲学の本を読んで、まとめたり一部を紹介することって、すごく難しいし、暴力的な側面もあると思います。わたしの理解が間違っている可能性も大です。それも踏まえて、今回はとりあえず、本当に気になった一部分だけ記録しておきます。何か思うことがあったら、ぜひ指摘してください。
メルロ=ポンティは、人間が「言語」をもつということは、人間が「身体」をもつことによって可能になったこと、人間が言語的な存在であるということは、人間が身体的な存在であることと同じ根拠に基づくものであるということを示しています。
その上で、
他者の言葉を理解することは、「わたし自身の実存がこれに同調して変化することであり、わたしの存在の変形である」。「言語を語ることで、わたしたちはひとつの実存として「世界を<歌う>」。
と言っています。(ざっくり)
なんとかっこいい言い回しか。ここでいう<歌う>って、即興的な口ずさみ、みたいなものなんだろうか。
ここから下は、本を読む前にぼんやり考えていたことです。
制作者は<わたし>という複雑な文脈の集合体の中から、<表象>という形で、絵や言葉で断片を出してゆく。
言葉による対話とは、お互いの断片を見せ合って、断片としてお互いの文脈、あるいは輪郭を探り合う行為だな、と思ってました。信頼してる友達同士とか、できる人とは、徹底的にそれが出来る。お互いの断片、文脈を見せ合って、輪郭を探り合うって、なんだか文字にするとその行為は色っぽく思える。それは、言葉が身体であることと関係があるのかな。言葉によってその人の中身を探るって、信じることを諦めたら出来ないし、すごいことだし、話し合って何かを分かち合う瞬間ってカタルシス感じませんか。
メルロ=ポンティが言う、<わたし>の存在の変形って、生成変化のひとつの形なのかなー。
こんな感じだと、毎回結構時間がかかるかな。
たまにもっと全然難しくない本を読んだり、それでも疲れたら、好きな曲の動画を貼ったり、長文のTwitterみたいに使います。ゆるく勉強。月に一回できればよしとすることにします。絶対に無理しないぞー。