大学院を卒業してしまったので、勉強を続けるモチベーションとして、今後、「うた」(歌/詩)をきっかけとして、そこからゆるゆる自由研究していこうかなと思います。 noteの使い方どうしよかしらと悩んでたけど、これが一番良さそうかなー。あとは、純粋にもう合唱する機会が無い(涙)ので、愛の行き場を失ってしまったからです。 自分は、実はなんやかんや美術よりも長いこと「歌」を続けてきました。 中高大と部活をムキムキ頑張ってたので、10代の私の身体は、ほとんど歌うために作られてきたような
夏の早朝、朝焼けを眺めに海まで行くのが好きだった。 実家のすぐ裏には、陸奥湾の海岸が続いていた。 6時前ころ、小言とともにおばあちゃんが活動を始める。それよりも早く、忍び足で動き出し、玄関の重たい引き戸の鍵をあける。 まだ涼しい朝のわりには短いズボンとサンダルで、膝のあたりまで生えた雑草を飛び越えてゆく。片手にエメラルドのiPod nanoを握って、朝の眠たい光の中で咲くはまなすを横目に、しょっちゅう海へと駆けていた。 はらっぱと砂利道を通り越して海岸に着くと、コンクリー
ふるさとは限りなく無音の場所でした、雪が降り積もると街中の雑音はすべて吸収され、真新しい雪ですっかり白くなった雪の層の上を歩くときに靴がいう「ぎゅっぎゅっ」という音を、かみしめながら歩いていた感触をよく覚えています。 年末の帰省で夜遅く地元に帰ると人はほんとうに無口で、どこかほかの場所から戻ってきたのだろう無言の人たちは時折「さび」「さびな」と、こぼしており、そのあまりにも小さな声は暗闇のなかでちらちらひかる雪かこだまかのように思え、そのときああ、ふるさとに帰ってきたのだなと
雨の中自転車を漕いでいるとき、生きている感じがします。 正直に話すとき、お腹が裂けるような感覚を覚えます。 なぜ・どのように・概念とからだは繋がっているのでしょうか。 わからない、わからない、何もわからない、、、と言いながら働く日々も1年経ちました。疑わしい自分に気づく毎日です。 今年も制作の場を頂けることが本当に幸せです。 やがてお湯のようになりたいです。
あっという間に11月になってしまいました。 そもそも自由研究するんだ〜と躍起になってはじめたnoteですが、それらしいことをずっとしていないですね。少しずつ本は読み、文章は書き溜めているのです。躍起になって始めたくせに、1人勉強を公開するようで恥ずかしい。勝手にすればよいのに、インターネット上に文章を投げることに対して、身構えてしまう。 でも、恥ずかしいと思うから恥ずかしいのかもしれない。もし同じ本を読んだ人がいたら近場にいたら嬉しいし、簡単な読書記録くらいのモチベーショ
怒涛のようだった8月、何も書けずに過ぎていってしまいました。1ヶ月に一回更新の記録は失敗です。その日あったことをその日のうちに書くのは、下手みたいです。 文章の練習と、書くことで気づく余白に出会うこと、遊んだ思考を拾い上げること、それらを兼ねてやりたいのだけど、忘れてしまうと書けないですね。 今回は、さいきんお邪魔した展示について、項目書きにしてみます。時間を置いて書くと頭が整理されている代わりに、言葉の中に、感じたものの瑞々しさが失われていないか、少し不安になりますね。
もう7月も終わりますね。 毎日少しずつ、制作をやっています。最近は大きなキャンバスをどーーんと張って、気合が入っていて、お仕事帰りに毎日コツコツ制作を進める日々です。 毎日コツコツしていたのが関係あるのか無いのかはわからないけど、昨日、とうとう寝坊して会社に遅刻しました。 言い訳ができないほどの清々しい寝坊でした。時計を見ると出社時刻の10分前。起床、絶望、呂律が回っていない電話を経て、超早送りで支度して、職場に着きました。かわいい先輩が、「ワープしたら間に合ったね」と笑っ
そもそも好きなものを好きなように書いて良いんだから、とわざわざ前置きをおかなければ、たとえ自分のためだとしても文章が書けない。最近の自分はそのくらい、意味に対して慎重になってしまっている。 軸の置き所が変わることで、表出されるものが変わることを自覚したからかもしれない。現実の話なのか、思考したものの話なのか、調査したものなのか、とか。どこに軸を置くのかがはっきりしないと、どういうテンションで書いて/読んで良いのかわからない。そんな状態だけど、トライアンドエラーだと思って、エイ
最近人と話すときに、「信じる/信じない」について尋ねることが多かった。 考えるきっかけは、自分がよく言われてきたからだ。大学のとき自分は、人から「真っ直ぐだね」とか「信じているものがありそう」と言われることが多かった。特に意味はないんだろうけど、妙な引っ掛かりを覚え、「それはどういう意味で言ってますか、誰を、何を?」と、よく思ったりした。 会社に入って、「人の言うことを鵜呑みにしてはいけない」と言うことをまざまざと思い返した。美大生だったわたしは、アホだから人の言うことをす
普遍だと思ってたものが粉々に砕かれるような経験をすると、これまでの価値観とか枠組みが信じられなくなる。実は1〜4月頃の、卒業から入社までの間は、笑えるくらいにそういうことが、ありえないくらい連続していて、色んなことに揉まれまくりました。 全く悲観的ではない!けれど、なんとなく普遍だと信じていたものが次々に壊れていった。そしてここに、空白の時間と、何者でもない自分がある。昨日の事実は今日の事実じゃない。どうやって自分を自分だと信じればいいのかな。そういうことを考えているうちに
中学生の頃、美術部に入るか音楽部(合唱)に入るか迷って、美術部の先生が怖そうだったから、合唱を始めました。実際は音楽の先生の方が何百倍も怖かったです。でもよき恩師で、練習中にぶっ倒れた時、めっちゃ叱られて、でもその後先生のお弁当を食べさせてくれました。人生でちゃんと叱られた経験はだいたい部活でした。 自分調べですが、中高生の合唱部というと、宗教音楽か、わらべ歌的なものか、現代日本語曲か、というイメージがあり、私もその辺りを色々歌いました。 その中でもラテン語の曲を歌う経験っ
春、どんどん暖かくなっていきますね。 自転車で通勤できるのがとても嬉しいです。しばらく晴れが続くといいな。 最近は『勉強の哲学』(2017/千葉雅也)を読んでます。とても読みやすくて、面白いです。 「破壊的なプロセス(アイロニーの過剰)」と「意味飽和のナンセンス(拡張的ユーモア)」。まるで自分が陥った状況に対する、詳細な診断書を読んでいるかのようです。 制作に限らず、生活においても、「何にでも言える話」になってしまう状況は無限地獄ですね。思考の成層圏を突き抜け、その先の
4月からお仕事が始まるまでの間、長いお休みも終わりに差し掛かっています。 わたしはおうちにある積読をのろのろと読んでいます。 最近は、『メルロ=ポンティコレクション』(中山元=編訳)を読んでます。 この本は、修士2年のある日、なぜかアトリエに落ちていました。多分何かのどさくさで、誰か後輩が忘れていったものだと思います。持ち主不明で、誰も名乗り出なかったので、とりあえず貰っておきました。 わたしは気まぐれなので、いくつもの本を同時並行して、たまに完読したり、そのままにしたり
録音するとき、それぞれの声部のタイムラインが見えるのが面白い。 音程が出るわけじゃないから楽譜じゃないんだよね。音ゲーみたいな、なんか線的な要素だ。 最近本当に暇だから、絵を描くかたわら続けられてて嬉しい。暇すごい、自由研究ができる。 今まではドローイング的にやってみたけど、今回は少しだけ計画を考えて作ってみた。エスキースだ。なんか硬くなったけどもう少し続けたい。
作品にタイトルつけようとして、作品よりタイトルの方がいいじゃんって思ってしまったことがある。