古風と新風。
こんにちは。こんばんは。
大好きなキャンプに約5ヶ月間も行けていないので、写真だけ載せておく、発達障がい子ども特別療育支援TASUC(たすく)のCMO・WEBマーケター&デザイナーのアツオです。
昭和49年(1974年)生まれ。
今年、49歳にもなる中年男(←私)である。
1974年の代表的な出来事と言えば、
背番号3番、ミスター巨人・長嶋茂雄選手が引退。
セブンイレブンの第一号店が、東京都江東区(豊洲店)にOPEN。
1964年から1972年まで内閣総理大臣を務めた佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞。
スプーン曲げで有名なユリ・ゲラーの来日で、超能力・オカルトブームが巻き起こった…etc
だそうな。
昭和64年に、元号が「平成」となったあの日のことを鮮明に覚えている。
つまり、平成元年生まれの人々がもう、今年34歳にもなるわけだ。
当たり前なことなのだけれど、そんな驚きの事実を知ると、自らがいかに歳をとったのかが、分かる。分かりたくはないのだけれど、分かる。
いつからだろうか?
誰に言われたわけでもないのだけれど、
「私はもう“古風(こふう)”な人なのだろうか?」
という思いに駆られ始めた。
古風とは、現代人(=若者たち)が、おっさんやおばさんたちに対し、表現、評価をする言葉であろう。
奥ゆかしいという意味にも、又、時代遅れの意味にも用いられるであろうから、いい意味、悪い意味両方で使われる言葉なのだろうな。(どちらかと言えば悪い意味で使われがち?)
では敢えて、昭和49年生まれのおっさん、つまり「古風な人」であると仮定(断定)した私から、現代の若者たちのことを「新風な人」と表現してみようか。
まずは言っておきたい。
実は私も、若かりし頃は、間違いなく新風な人だったんです。
当時の若き私からしたら、周りには古風な人たちばかりだった。
そんな人たちから、時に、うるさいことを言われ、罵られ、時代遅れとも思えることを強要、強制され、生きていた。半端ないストレスを感じたこともあった。
けれど、彼らは常に素敵だった。ように思う。
礼節を重んじ、恩を大事とする心があった。
現代においては“化石”的言葉とも言える「愛のムチ」が存在した。
若者たちに期待を寄せるがゆえの“叱り”という名の“教育的指導”があった。
師匠と弟子という、確固たる健全な関係性があった。
相手のことを真に思うがゆえの、良い意味においての“お節介やき”さんが沢山いた。
そして、それを“良し”とする多くの若者たち、つまり、私(たち)がいたのだ。
では、現代はどうだろう?
古風な人の言葉や指導を“良し”とする新風な人は多くいるのだろうか?
熱い言葉を熱いままに受け止められる新風な人は多くいるのだろうか?
「怒られた」ではなく「気づきを与えてくれた」と受け止められる新風な人は多くいるのだろうか?
願わくば、できるだけ多くいて欲しいものです。
だって、そうでしょ?
時代は移り変われど、常に、古と新が入り乱れた社会で、そんな人たちと関係性を保ちながら生きてゆくのだから。
冷めた顔、冷めた態度、冷めた気持ちでいるよりも、常に熱くいられたほうがイイに決まっている。
死んだらみんな、冷たいカラダになってしまうんだ。
ならば、せめて生きている内くらいは、熱くいようぜ。
こんな考え方や文章が、既に「古風な人」なのかい?(笑)
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