現代にも通じる名著『養生訓』!これを著した貝原益軒の思いとは?
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貝原益軒が最晩年に執筆した『養生訓』。益軒は、なんと後世の人のためにこの書物を書いたと言う。世にでると、たちまち話題となり、多くの人が手に取ったようだ。この本はいろいろな意味でありがたいものだった。町人でも読めるよう、ひらがなを多く使ったうえ、漢字にはルビまでふっているのだ。さらにそれを自ら試し、有効かどうかを確認までしたものを著した。そのため、当時としては途轍もなく長生きで84歳まで生きることができた。
私にとって貝原益軒。親父のような存在だった。とにかく似ていることが多いのだ。子供の頃から体が弱かったこと。歴史や美術や哲学など多方面に興味のアンテナをはっていたこと。健康については、自分で考えたものをやってみたこと。さらに本好きで、死ぬまで書籍を買い求めていたことなどだ。
*益軒、どんな人物?
江戸の初期、1630年に福岡黒田藩につかえる藩士の家に生まれる。5人兄弟の末っ子だった。5歳で実母をなくし、12歳になると継母まで失っている。14歳から18歳位まで、江戸で父と暮らす。ところが20歳になると、藩を罷免。6年近くも浪人となった。その後はまた藩に復帰し、70歳まで勤めあげる。
藩をやめてから、様々な本を執筆していく。「黒田家譜」 「筑前国続風土記」 医書の「大和本草」などだが、最後に著したのが「養生訓」だった。養生とは、健康のこと、訓とは教えの意味だ。平易な文章により、誰でも読めるようにしたようである。
学問は、12歳年長の兄「存斎」から学んでいる。漢字から漢詩、さらには朱子学(儒教)までも教えたようだ。そのため8歳から「平家物語」 「太平記」 「平治物語」 「保元物語」などを読破した。14歳からは儒学の四書(論語、大学、中庸、孟子)を読んだ。ただ読むだけではなく、すべて音読したと言う。さらに驚くのはこれを死ぬまで続けたことだ。
*益軒、知識の源泉は?
とにかく、その蔵書量は多かったと言う。益軒、中年に差しかかる頃となると、日本中で旅行ブームが起きた。これが幸いしたようだ。日本各地に出かけ、見聞を広めている。京都の町に24回、江戸に22回、長崎にも5回ほど行ったと言う。この旅のなかで、人脈を広め蔵書も増えたようだ。
旅行ブームになったのは、このころ治安が良くなったことがあげられる。さらに自立した農民が増えたこと、五街道も整い、金銀銭が普及し、旅籠(はたご 旅館)が増加したことが大きかった。この頃とくに伊勢参りが流行ったと言う。さらに富士登山で、幕府は子女に許可も出している。
*予防医学に通じる教え!
私たちは天から寿命を授かって生まれてきている。ところが様々な欲により、体を壊していると言うのだ。益軒に言わせると、それではもったいないと言う。益軒の時代においても、屋台で何でも安価に食べれるようになっていた。そのため、どうしても食べ過ぎてしまうのだ。益軒はこれを誡めている。
「腹八分目」と言う教え、300年も前に益軒はうったえている。また夜食についても、体に良くないとした。夕食は早めに摂るよう忠告しているのだ。遅いと睡眠の質を下げてしまう。さらに言えば寝ていても臓器は仕事をすることになる。そのため体は休まっていない。
酒については益軒、精神面のメリットをあげる反面、飲み過ぎは体を害する!とした。現代医学から言うと、効能があるのは缶ビール1本程度。これ以上は全てデメリットしかない!というのが研究者のほとんどの意見である。
口腔ケアについても益軒はふれていた。食後に歯を磨きなさいと。どうしてもできない時は、お茶で何度かすすぐと良い!とした。この益軒、死ぬまで歯は1本も抜けていなかったと言う。この事実にも驚くものがあるが、つまりは自分もキッチリやっていたと言うことをあらわしている。
*まとめ
益軒、39歳の時に嫁をもらう。当時17歳の初子(後に東軒)との結婚だった。歳の差なんと22歳。子供には恵まれなかったものの、夫婦仲は良かったという。ただこの初子も体を弱かったようだ。益軒はこの妻に薬を処方している。
初子も当時としては長生きで、62歳まで生きた。しかし、この妻が亡くなると、益軒は急に元気をなくしたようだ。妻が旅立ってからわずか8ヶ月、益軒は妻を追うようにして亡くなった。それほどまでに益軒の精神と健康を支えていたということだろう。