呪術都市江戸⑤
天海僧正と家光は京都に施された呪術を江戸にも用いたという。
五色不動?三色不動?
不動明王とは五大明王、あるいは八大明王のひとつで、大日如来の使い、あるいは後に大日如来そのものの憤怒の姿といわれ、右手に降魔の剣、左手に羂索を持って、教化し難い衆生を救い、魔を調伏するという。
京には都の守護神として「五色不動」が祀られたという。
目白不動(青蓮院)
赤目不動(高野山明王院)
黄不動(曼殊院)
五色不動と言いながら、三色しか伝わっていない。
天海僧正はこれにならい、江戸にも五色不動を祀ったのだという。
目黒不動(目黒区下目黒の滝泉寺)
目白不動(豊島区高田の金乗院〈元は新長谷寺〉)
目赤不動(文京区本駒込の南谷寺)
目青不動(世田谷区太子堂の教学院〈元は麻布の観行寺〉)
目黄不動(台東区三ノ輪の永久寺)(江戸川区平井の最勝寺)
なぜか目黄不動だけ二つある。目赤とか目青とかいっても本当にその色の目をしているわけではない。五色は陰陽五行説からとられたとか、密教で重んじられた五大(地、水、火、風、空)を不動明王になぞらえられたという説がある。曼殊院の黄不動は目というより全身が黄色い。
江戸中期の『夏山雑談』という随筆によると、江戸の地名に、目黒、目白、目赤、目青があって、江戸開幕当初、天海僧正が命を受け、江戸鎮護の為に市中の四方に不動明王を設置した。その目が黒、白、赤、青だからそれが地名として残ったのだとある人が言った。これは玄武、白虎、朱雀、青龍の四神相応の思想に基づくものだろうと書かれている。
ここでは目黄不動はなく、四色不動である。
実は当初は三色不動だったという説もある。文化五年[1808]の川柳「五色には二た色足らぬ不動の目」
明治十四年[1881]には目黒、目白、目赤不動は東京府下には昔からあったが、目黄不動が昨年下谷坂本町に新設された。そして今度横浜の野毛新田に目青不動が安置されたという新聞記事があるそうだ。
目黄と目青は明治以降だという。しかも目青は横浜だ。すると『夏山雑談』の目青不動はどうなるのだ。
文政八年[1825]浅草寺塔頭の勝蔵院が目黄不動であるという文書が幕府に提出された。現在知られる永久寺、最勝寺とは別物である。しかしこの仏像は以前は「明暦不動」とよばれていたのだという。「めいれき」が「めき」になってしまったらしい。
だんだんアヤシイ話になってきた。だいたい、目の色が黄色でなくとも「目黄不動」と言えば言ってしまえるのだから、目黄不動が現在二体あっても不思議ではないのだ。
もうこれ以上追及するよりも、結論を書いてしまおう。家光が、あるいは天海僧正が五色不動を江戸の各所に祀ったことはない。
家光の時代に存在した不動尊は目黒、目白、目赤の三不動だけらしい。このうち、確実に家光が訪れ参拝したのは目黒不動である。目白と目赤については、家光が鷹狩りの途中で立ち寄ったとか、「赤目不動」を目黒や目白に合わせて「目赤」に変えさせた(あるいは命名した)という伝承があるが、ちょっと疑わしい。
ということで、地、水、火、風、空だとか、陰陽道のように色と方位を合わせて祀ったということもない。・・・・・・なんだか、がっかり。
だけど、そもそも京都の五色不動だって三つしかないではないか。
こうしてみていくと、「五色不動伝説」が作られたのは明治以降ということになる。天海という怪僧のイメージは、「これはありそうな話」として作られた都市伝説を疑うことなく受け入れられてしまうほど強烈だということだろうか。
それこそ「呪」ではないか。
まぁ、ご本人は濡れ衣を着せられたようなもので、苦笑いしているかもしれないが。
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