古代チベットが黄河文明を開いた?(3)
夏王朝を開いたという伝説の帝禹は西羌(西のチベット族)出身だった。禹の先祖に黄帝がいる。黄帝は伝説上の五帝の一人とされ、氏は軒轅で姓は姫。蚩尤との戦いに勝ち、神農氏から帝位を授かった。
黄帝の出身は河南省とされているが、黄帝ゆかりの軒轅の丘(臺)は崑崙山の近くにある。崑崙山はチベットのカイラス山のことだ。
『山海経』第七 海外西経によれば、「軒轅の国は窮山の際ににあり、そこでは長寿でないものでも八百歳。女子国の北にあり、人面蛇身で尾が首の上でとぐろを巻く。窮山がその北にあり、あえて西を向いて弓を射ないのは、軒轅の丘を畏れるから。軒轅国の北にあり、その丘は方形で四つの蛇が絡み合う」とある。
軒轅国は、女子国の北にあるという。女子国とは『隋書』に出てくる女国のことだろう。女国は女王と小女王二人で国を治めるが、女子国も二人の女子が住むとあるので、間違いないと思う。これは西チベットに実在したシャンシュン王国のことだ。
軒轅国人は人面蛇身だという。蛇は日本では水神にたとえられるが、中国でも同じだろうか。だとすれば水を操るのにたけているということだろうか。太古のチベットはおおきな内海のような場所だったと考えられるのだ。
窮山というのが具体的にどの山を指すかはわからない。(窮山は人里離れた深山という意味だが…)軒轅の丘または臺は、黄帝を祀っていると思われる。方形の臺ということは上部に平らなところがあるピラミッド型をしているのだろうか。四つの蛇が絡み合うというのはどういうことだ?四段になった階段状ということか。それともらせん状なのだろうか。
このピラミッドがもしも黄帝の墓だとしたら、どこにあるのかぜひ知りたい。
黄帝とその前の神農は、様々な社会事業を発展させた。神農は木製の鋤鍬を発明して農業技術を発展させたのに対し、黄帝はそれに加えて工業技術の発展も促した。船(おそらく丸木舟や皮張りの舟よりも複雑な構造船)や車(車輪のついた乗り物=牛馬車、荷車など)を開発したのは黄帝とされる。
衣服や建築分野でもより洗練された形に発展させたのは黄帝である。
そして、神農が東洋医薬を発展させ、黄帝は東洋医術を発展させた。
神農氏は牛頭人身で葉っぱの蓑のようなものを纏った姿で表され、いかにも異邦人的だが、チベット系といわれている。
漢方を学ぶ人なら明代に書かれた『本草綱目』を読むと思うが、そのもととなるのは『神農本草経』という本。漢代に書かれたといわれ、神農とは時代が異なるが、本草学を研究する人はチベットに行くことが重要らしい。
黄帝は『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』を著述したという伝説があり、鍼灸治療の祖である。
また、黄帝は貨幣、暦、音律を制定したともいわれる。首山の銅を採って鼎を鋳造し、鏡を作り、弓矢を作り、指南車を発明し、兵法の祖ともいわれる。蒼頡に文字を作らせ、房中術も黄帝の発明ともいう。
金属器の導入、貨幣と暦の制定は集落が都市になり国家として発展するのに欠かせない。
このような業績(といってもすべて伝説なのだが)から、夏、殷、周、秦は黄帝にルーツを求めているし、すべての漢民族の祖とされている。
この漢民族という言葉には何か引っかかりを感じる。確かに夏以降の黄河文明の発展を見れば、そこは漢民族(漢族)が中心となって活躍しただろう。しかし夏以前の、いわゆる三皇五帝の神話時代の出来事は、黄河流域の話なのだろうか。
そもそも漢民族を民族といってもよいものか。漢は紀元前206年成立の漢王朝が語源だが、漢民族とか漢人とは漢王朝の民というわけではない。古くから黄河流域に住んでいて、漢字を用い、苗字が一文字(漢姓)で、中国語を使う中華的な文化を持つという、チベット人やモンゴル人などと比べると、かなりもやっとしたくくりだ。
実際はいろいろなルーツを持つ集団で、一文字姓にしても元は異民族だった人が、漢族に同化する過程で姓を変えたという例は多い。現代の中国人の中にはルーツが実は漢民族ではないのに、すっかりその歴史を忘れてしまっている人も少なくない。(現在は中華人民共和国の民族識別工作によって「漢族」のお墨付きをもらった人)
ということで、黄帝は「華夏族」の祖と呼びたい。
「華族」とは殷王朝を倒した周王朝の武王が自らのことを「華族」と称したことに由来する。
「夏族」とは殷王朝以前の夏王朝の子孫を「夏族」と称す。
この二つを合わせて「華夏族」といい、黄河流域に住んでいた漢族はこれを継承したということだ。
なお、殷の王族は北方遊牧民の流れで、直接チベット系ではないようだ。先祖が帝舜によって商(殷)に封じられ、代々夏王朝に仕えていたという。
周の王族は姫姓で、夏と同じなので、チベット系といえる。先祖の后稷は帝舜に仕えたが、母は姜嫄といい、姜は羌と同じでチベット系。文王に仕えた太公望呂尚も羌人だ。
周を滅ぼした秦は甘粛省に起るという。西陲(西のほとり)より起こるという氐というチベット系の民族がいて、巴という国を作り、秦にほろぼされたというが、秦もまた氐や、羌の後裔という説もある。
秦の始皇帝が作らせた万里の長城は、東方に比べ西方の防御が甘いのは西方の羌や氐とは良好な関係だったからだろう。
河南省は確かに黄河文明の発祥地だ。でも、その地を開拓し、都市に育て上げ、国家を造ったのが、今はチベットと呼ばれる西方の民だとしたら、驚くべきことではないだろうか。(それにしても、西戎とか言って蛮族扱いしているくせに、羌、氐人の活躍を誠実に書いているところとか、中国の史人、ちょっと尊敬)
主な参考資料
抱朴子・列仙伝・神仙伝・山海経 本田済 沢田瑞穂 高馬三良訳
平凡社
古代チベット文明の謎 立石巌 大陸書房
月の謎とノアの大洪水 飛鳥昭雄 三神たける 学研
チベットの都・ラサ案内 金子英一 平河出版社
謎のチベット文明 密教王国・世紀の大発見 徐朝龍 霍蘶 PHP
西王母の原像 比較神話学試論 森雅子 慶應義塾大学出版会