六歌仙のなぞ(2)
◆不思議な仮名序◆
ところが、この仮名序が実に不可解なのだ。そして、この不可解なことこそが、六歌仙のなぞにつながっていくのである。
順を追って説明していこう。まず、仮名序の内容である。
「やまと歌は人の心を種として、よろずの言の葉とぞなりける。」で始ます冒頭部分は有名で、この部分だけでも貫之の文才を知ることができる。
「世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をもやはらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり」
ここでは歌のもつ神秘性、万能性を力強く説いている。
次に、和歌の歴史を神代から順を追手説明している。歌は実に、天地開闢の時に生まれたというのである。そして、素戔嗚尊の時に、初めて三十一文字の和歌の体裁が整ったという。貫之は素戔嗚尊を神代ではなく、人の代と書いている。
更に、仁徳天皇の時代に初めて歌が帝に献じられた、と続く。(別の解釈もある。)そして、和歌の技法に六種類があると書いて、その例を挙げる。その後、現在の歌の状況について、ちょっぴり批判を加えている。和歌の起源を思い起こし、初心に帰れと嘆いている。
その次に、万葉時代を紹介し、和歌全盛の時代を懐かしみ、それからようやく六歌仙の登場となる。そして、醍醐天皇の勅命により、続万葉集ともいうべき新しい歌集を編纂する事の次第、また、それを『古今和歌集』と名付けることを記している。
最後は貫之自身の、この歌撰集に対する思いを綴って、序文を締めくくっている。
紀淑望の真名序は、これとほぼ同じ内容を漢文で書いている。
さて、この序文のどこが不可解なのだろうか。
まず、書き出しの立派な文章に比べて、真ん中の歴史記述がどうも引っかかる部分が多い。
例えば、素戔嗚尊の時代を神代ではなく、人代にしていること。
また、ならの帝も不可解である。貫之は万葉時代の歌人として、このならの帝を人麻呂や赤人と共に挙げている。とすれば、このならの帝は人麻呂や赤人と同時代の人なのか?
ところが、ならの帝の御歌として挙げられた歌、「龍田川 もみぢみだれて 流るめり わたらば錦 なかやたえなむ」は、平城天皇の歌という説があるのだ。(実際は読み人知らず。)平城天皇は平安時代の天皇である。平安時代の天皇を、持統、文武天皇時代の柿本人麻呂や、聖武天皇時代の山部赤人と並べるのはなぜか。
『万葉集』が、平城天皇の時代にようやく完成したこと。一方、平城とは平城京のことなので、混乱が生じたとも考えられる。ところが、真名序にも「昔平城天子勅侍臣。令撰万葉集。自爾来。時歴十代。数過百年。」と、あるからややこしい。「時歴十代」は『古今集』の醍醐天皇から数えて十代前のことで、平城天皇の時代にあたるし、それはほぼ百年前なので「数過百年」なのである。
仮名序によれば、和歌が普及した時代を「ならの御時」といい、それは「かの御世」が歌の心を知っていたからという。「御時」「御世」とは、天皇の「御宇」のことで、それは「なら」にかかるので、ここでは「ならの天皇の御宇(御時、御世)」となるはずで、「奈良の時代(平城京時代)」という解釈はおかしい。ならの天皇とは、すなわち平城天皇のことにほかならない。時代の違う三人を並べて万葉人のように扱っている。
また、柿本人麻呂を正三位とするのも、歴史的根拠が無いようである。この人麻呂高位高官説が、あの有名な梅原猛氏の『水底の歌』や、篠原央憲氏の『いろは歌の謎』をはじめとする「人麻呂ミステリー」の根拠にもなっていくのだが、実際人麻呂は謎の人物で、『万葉集』であれだけ歌が載っているにもかかわらず、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』『新撰姓氏録』などの、どこにも名前が出てこないのだ。それで、同じ時代の柿本朝臣佐留を人麻呂の事だとする説が出てくる。しかし、この説も推理の域を出ず、怪しいのだ。(佐留を人麻呂の父とする説もある。)
ともかく、貫之の時代に柿本人麻呂が果たして正三位と認識されていたかが問題である。柿本人麻呂は時代を経るにしたがって次第に神格化され、猿丸太夫と習合して信仰の対象になっていくのだが、それは平安時代の後期からといわれている。だから、人麻呂が正三位と認識されるようになったのも、神格化されて後の事だともいわれているのである。
柿本人麻呂や猿丸太夫については、あとの章でもう少し突っ込んで検討してみたいと思う。
とにかく、こうした歴史錯誤(?)の仮名序に対して、真名序は同じような内容にもかかわらず、基本的に歴史の誤りはないのである。
次に不可解なのは、文章の構成である。
例えば、和歌に六つの技法があると説いた一節である。これは、漢詩の六義(風・賦・比・興・雅・頌)からヒントを得たらしい。それを「漢詩にも、かくぞあるべき(漢詩にも、同じようなものがあるはずである)」などと、まるで漢詩なぞ知らないよ、和歌にもあるのだから、漢詩にもあるだろう、と和歌の方が優位だと言わんばかりだが、これは貫之独特のユーモアだろうか。因みに真名序の方は、「和歌に六義あり。一に曰く、風。二に曰く、賦・・・」として、和歌の六義は漢詩のそれから取った、とはっきり書いている。
ところで、貫之はこの六種の技法に則った歌の例をいくつか挙げている。が、これがどうもよくわからない。和歌の事をよく知らない私が勉強不足だからなのだろうか。(きっとそうだ)
だらだらと書いている割には、例に挙げた歌が適切だとは思えないのだ。
貫之自身が「よくかなへりと見えず(好例とはいえない)」「いかにいへるにかあらむ(どういう例示であるか)」と書いているが、それはこちらがききたい。
それはともかく、この一説が仁徳天皇、橘諸兄(天平時代の人)を紹介した後に、突然入るのである。順からすれば、ここは歌の歴史の前にするか、六歌仙の後に入れるべきではないだろうか。
〈仮名序の内容と順番〉
*書き出し。神代から和歌はあったが、その体裁はまだ整っていない。
*素戔嗚尊が三十一文字の和歌を始めて作った。
*大鷦鷯の帝(仁徳天皇)に初めて歌が献上された。
*葛城王(橘諸兄)に、采女が歌を献上した。
*歌の六義と歌の衰退。
*ならの帝、柿本人麻呂、山部赤人の絶賛。
*六人の歌人(六歌仙)の紹介。
*古今集撰上の勅と、その編纂メンバー。しめくくり。
また、六歌仙の批評である。六人を近代(貫之の時代から見て)の代表的歌人とするならば、その歌を褒めてもよさそうなものである。大友黒主などは「そのさまいやし。いはば、薪をおへる山人の、花の陰に休めるがごとし」とあるだけで、全然褒めていない。小野小町も「歌は古への衣通姫の流なり」と書いてはいるものの、これは別に歌のできを褒めているわけではない。
他の四人も、「歌のさまは得たれども、まことすくなし。(僧正遍照)」「その心あまりて、ことば足らず。(在原業平)」「ことばたくみにて、そのさま身におはず。(文屋康秀)」「ことばかすかにして、初め終はりたしかならず。(喜撰法師)」と、これが歌の名人に対する評価なのだろうかと首をかしげる。「歌のさまは得たれども」とか「ことばたくみにて」というのは、一応誉め言葉なのだが、それが次には「まことすくなし」「ことば足らず」とすぐに否定されてしまっているのだ。もちろん、どんな歌の名手にも、長所と短所がある。しかし、黒主のように全然褒めるところのない歌人を、名手として選んだのはなぜなのか。
ただし、真名序には、黒主を「古猿丸太夫之次也。頗有逸興」と一応誉め言葉がある。すると、貫之が黒主の長所を抜いてしまったのは、単なる書き損じか。
そのほかにも、歌に対する見解に誤りがあったり、意味不明の文章があるなど、内記(詔勅、宣明、位記などを書く職。文章の上手い人が選ばれる)まで勤めた貫之とは思えない。そのため、仮名序は貫之が書いたものではなく、後世の人の手による偽作であるという説もある。