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古代チベットが黄河文明を開いた?(2)

 崑崙の虚を掘り、九層の楼閣を造ったとされるとは、中国の夏王朝(BC2070~BC1600頃推定)を開いたとされる伝説の帝だ。黄河の治水工事を十三年かけて成功させたことで知られている。

 その禹になぜ崑崙の虚を造ったという伝説があるのか。

 『史記』六国表序に、禹は西羌に起るとある。禹はチベット族なのだ。
 『荀子』大略篇では、禹は西王母に学んだとある。

 また西王母だ。中華最初の王朝の帝の禹よりも西王母のほうが格上で、しかも教えを授ける存在なのだ。
 教えの内容は具体的にはわからないが、禹の事績を考えれば、土木技術についてかもしれない。それも治水に関する技術ではないだろうか。
 現在の非常に乾燥したチベットからは、高度な治水技術があったとは、とても想像できないが。

 そして、その「事実」は早い時期に忘れられてしまった。戦国時代には中原に中華思想が芽生えて、西王母の実在は否定されてしまう。司馬遷の『史記』にも、西王母のことは書かれていない。そして、西王母は神仙に祭り上げられてしまった。(立石巌『古代チベット文明の謎』)


 禹よりもずっと後の話になるが、ラサにあるポタラ宮は、小高い丘の上にそびえている。その下にラサの町が広がっているのだが、実は宮殿が作られたとき、丘の下には船着き場があったといわれる。
 吐蕃王朝の始祖ソンツェン・ガンポ王(6世紀~7世紀)に唐から輿入れした文成公主が国元から持参した護持仏を乗せた馬車が、ラサ中心にあるオタン湖のほとりに差し掛かった時、突然地面に沈み込まれた。公主が占わせると、その地下に龍の宮殿があると分かった。そこで四方に柱を立てて、地鎮祭を行った。
 また、ネパールから輿入れした王妃ティツゥンが、オタン湖の近くにトゥルナン寺を建てようとしたところ、昼間造った土台が一夜のうちに消えてしまう。そこで文成公主が占わせたところ、チベット王国はあおむけに寝た鬼神羅刹の姿で、オタン湖はその心臓にあたり、そこが地獄、餓鬼、畜生の三悪道の門なので、湖を埋め立ててしまうべきと出た。
 龍の宮殿と羅刹の心臓(三悪道の門)て、全然違うじゃないか、というツッコミは置いといて、かつて大きな湖があり、その地下にも巨大な水がめがあるというのがこの話の肝なのだ。

 青海地方(チベットの東部)の昔話にこんな話がある。ラサに大きな寺を建てようとしたがほぼ完成というところで、何度も崩れてしまうことが続いた。実は地下に大きな海があり、そのために建物の土台が崩れてしまうのだった。
 その秘密を青海の老ラマから聞いたラサのラマが国に帰ると、間もなく轟音とともに地下から大水が噴出し、青海の老ラマも人々も動物も水にのみ込まれた。ラサの地下にある海の水が東に移動したのだ。
 こうしてラサに壮大な寺院が建ち、周りに町ができていった。
 この話はラサの中心にあったオタン湖の話とも通じる。

 チベットの建国神話でも、西蔵チベット全体が太古は一面に湖で、ある時湖水が乾いて水が引き、灌木が生えてそこに鳥や獣が棲むようになったと伝える。一匹の猿と魔女(羅刹女)が出会い、夫婦になった。まもなく六匹の猿が生まれ、その猿の体毛が成長するにつれてなくなり、尾も短くなっていった。これが西蔵人(チベット人)の起源だという。

 『山海経』の「西山経」は中国西方のことを記す。その中に「西、水行四百里、流沙と曰う」これは西王母の玉山(カイラス山)へ向かう経路。水行ということは船に乗っていくということだ。現在カイラス方面へ西へ流れる川はない。立石巌は『古代チベット文明の謎』のなかで、「四百里の水行は湖水でなくてはならない」と書く。

 禹の時代のチベットの風景は現在と大きく異なり、海のような巨大な湖水と緑豊かな土地が広がっていたことだろう。西周の穆王がシャンシュンの西王母と会食をしたという瑶池も、現在のマナサロワール湖を想像してはいけない。もっともっと大きな湖であって、もしかしたらもっとカイラス山の間際まで広がっていたかもしれない。
 このような土地なら、治水土木技術も発達するかもしれない。
 禹が治水工事をした黄河はその上流は青海である。


当然のように中国風に描かれているが、実は…

 禹やその父のこんは字の中に虫(爬虫類→龍蛇)や、魚があることからも水に関係が深い。(禹、鯀は諡号で本名ではない)
 また羌と同じくチベット族というてい人は『山海経』ではこんな姿だ。

 これ、人魚だよね。『山海経』はこんな怪物がたくさん出てくるが、氐人もまた水と関係が深い人々ということなのだろうか。

 チベット高原を取り囲むヒマラヤ山脈、カラコルム山脈、崑崙山脈は、氷河時代にはぶ厚い氷で覆われていただろう。二万年前に間氷期に入り、徐々に温暖化して融けて流れ出す。その水はチベット高原全体を水浸しにしたかもしれない。
 時に大雨が降ったわけでもないのに、氷河の融解した水が洪水を引き起こすこともあっただろう。そして下流域に被害をもたらす。


 古代の黄河の洪水はどうして起こったのか。
 氷河の異常融氷が時に破壊的な現象を起こすことがあるという。例えばギリシアのサモトラケ(サモトラキ)島にはこんな伝承がある。大雨が降ったわけでもないのに、ある日突然海面が異常に上昇して島を襲い、多くの土地がのみ込まれてしまったのだ。
 サモトラケ島は黒海の出口にある。

 地質学者の金子史朗の推察はこうだ。(『ノアの大洪水』)
 黒海をせき止めていた自然堤防が決壊したのではないか。気候が好転して、フェノスカンディア氷河やそれを取り巻くツンドラ帯の永久凍結層が一斉に融解しはじめた。融けた水はエムス、エルベ、オーデル、ウイスラ川に流れ込んだが、一方ドン・ドニエプル川にも流れ込み、黒海へ排水されただろう。
 はるか東方のアラル海やカスピ海に流れ込んだ融解水はあふれて黒海に流れ込む。黒海の水位が上がり、ついに現在のボスポラス海峡の低所を選び、地中海側へ溢流した。
 ボスポラスのボトルの栓が抜けて、大量の水がサモトラケ島に襲い掛かったのだ。

 立石巌はこれと似たようなことがチベットでも起きたのではないかという。その大決壊はヒマラヤ山脈を貫通し、ガンジス、インダス、ブラマプトラ、サルウィンの流れとなる。

禹や鯀が命がけで戦った黄河の洪水も、大量の氷河の融解水が原因ではないだろうか。
 鯀は高地を削り低地を埋めた。これは自然堤防が川の流れをせき止めていたことを表す。しかし、押し寄せる氷河の融解水は自然堤防を越えて下流に流れ出た。
 禹は放水路を作って水を分散させたというが、これも自然にたくさんの流れができたとも考えられる。そして禹の時代(夏王朝時代)に洪水がなくなったのは、氷河の融解水の量が自然と減少したせいなのかもしれない。
 いずれにせよ中原は水が豊かになり、農地は広がり人口も増え、夏王朝が栄えることになる。(夏は考古学的にはまだ存在を証明できていないようだけど、ここでは実在したとする)
 






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