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六歌仙のなぞ(1)


第一章「六歌仙とはなにか?」


◆六歌仙とは誰か◆


 ご存じのように、六歌仙とは平安時代の代表的歌人である六人、すなわち僧正遍照、在原業平、小野小町、喜撰法師、大友黒主、文屋康秀のことである。
 この六人が最初にそろって紹介されたのは『古今和歌集(以下、古今集)』の序文においてだった。序文には撰者紀貫之による仮名序と、紀淑望による真名序(漢文)があり、そのどちらにも六人は出てくる。
 ただし、この六人に対して「歌仙」という敬称はどこにも出てこない。ただ、紀貫之らの時代から見て少し前の歌人の中で代表を挙げるとすればこの歌人だ、と書かれているだけである。
 それが六歌仙といわれるようになったのは、『古今集』がその後、和歌を勉強する人の教科書になったからだろう。特に公家に生まれたからには、『古今集』の歌は全て丸暗記するべき教養とされていたらしい。それだけありがたいものだから、その撰者が挙げた六人も、歌人の代表と思われるようになったのではないだろうか。
 「歌仙」のネーミングは、どこから来たものだろうか。それは、序文で六人を紹介した箇所より少し前に出てくる、柿本人麻呂について書かれた文、「正三位柿本人麿なむ、歌のひじりなりけむ」から来ているのだろう。序文では『万葉集』時代の代表的歌人として、ならの帝、柿本人麻呂、山部赤人を挙げている。
 ならの帝とは特定の天皇を指すものではなく、奈良時代の天皇(平安京以前)のことをいうらしいが、ある説では平城へいぜい天皇ともいわれている。(平城天皇は平安初期の天皇。806~809年在位)
 序文は和歌の普及した奈良時代を評して、「君(天皇)も人も身を良く合わせたり(力を合わせた)といふなるべし」と言い、人麻呂と赤人に対しては、「人麿は赤人が上に立たむことかたく(難しく)、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける」と、絶賛している。
 こうした文章の後に、六人は平安時代の初期を代表して選ばれているのである。『万葉集』では人麻呂、赤人だが、『古今集』ではこの六人だというわけだ。後の人が、人麻呂や赤人を歌の聖といったのに習って、この六人を「六歌仙」と呼んでも不思議はない。

◆紀貫之はどんな人◆


 『古今集』は、日本で初めての勅撰(天皇の命)和歌集である。編纂されたのは延喜五年[905]、醍醐天皇の時代だった。編纂メンバーは、紀友則、紀貫之、紀淑望、凡河内躬恒、壬生忠岑の五人。このうち、紀貫之が撰者の中心となったらしい。身分からいって、紀友則がリーダーであるべきで、最初はそうだったのだが、友則は途中で亡くなってしまっている。そこで、紀貫之にバトンタッチされたのである。貫之は『古今集』の哀傷歌に、友則の死を悼む歌を載せている。
 貫之の肩書は、序文によると御書所預で、これは宮中の書物の保管所の所長のことである。決して高い身分ではない。しかし、その文才と歌の才能を認められて、勅撰集の撰者に選ばれ、その後は右大臣藤原定方や、中納言藤原兼輔の庇護の下に、順調に栄進する。
 が、それも右大臣と中納言の死で暗転するのである。晩年の貫之は、身分的には不遇であった。古代からの名家紀氏も、藤原全盛の時代では出世の見込みは無いに等しい。才能ある貫之も、その例外ではなかった。貫之と同時代の人で、藤原氏や臣籍降下した源氏以外で、中納言以上の公卿まで上りつめたのは菅原道真だけなのだ。(延喜十年に、紀長谷雄が権中納言になっている。権中納言は中納言の下)
 『古今集』の序文を、貫之は和文体(仮名)で書いている。これは、画期的なことだった。なぜなら、このような公式文書では、漢文で書かれるのが普通だったからである。それをわざわざ、和文と漢文の二種類の序文をのせているのだ。
 貫之といえば、土佐の国司として赴任した体験を綴った『土佐日記』も有名だ。これも和文で書かれている。
 当時、和文は主に女性が使う文章だった。貫之も『土佐日記』の自分を女性に置き換えている。だから、天皇の勅による文章を和文で書くということは、考えられないことだったのだ。
 漢文を重視したのは、中国文化の影響が強かったせいである。政治の仕組み自体、中国の律令制度を基にしている。特に平安時代の初期は、桓武天皇や嵯峨天皇が強力に中国(唐)の文化を取り入れたせいで、和歌よりも漢詩の方がもてはやされていた。
 しかし、貫之の時代になると、だんだん事情が変わってきたようだ。日本人による日本の文化が、このころから次第に強く出てくるのである。花といえば梅だったのが、桜へと変化したのである。
 そのような時期に、いち早く和文を勅撰集の序文で用いた紀貫之は、やはり並々ならぬ文章センスの持ち主だったといえよう。

 



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