将門を祀る?二宮神社(あきる野市)
JR拝島駅で五日市線に乗り換えて二駅目の東秋留駅で下車した。途中、多摩川を鉄橋で越える。ちょうど支流の平井川が合流する場所だ。
駅の北側に出て線路と並行した道を200mほど東に進むと、北側に石垣のある高い崖が現れる。崖に沿って歩くと神社の白い石の鳥居が見えた。崖の上に社がある。
二宮神社の創建はいつなのか、よくわからないそうだ。伝説によれば、日本武尊が東国を平定する途中、国常立尊を祀ったのが始まりだとか。
最初の場所はここではなく、小川郷という。小川という地名はこの神社より南東に1㎞ほどの所にある。古くは小川大明神と呼ばれていたこともあったようだ。
二宮とは平安時代以降、総社制度ができた後のことである。国司は任国の社を巡って参拝する仕事があった。しかし大変なので、代表的な社を選んで、一宮、二宮・・・などとし、一か所に勧請して総社としてそこに参詣した。
武蔵国では多摩の小野神社が一宮で、埼玉の氷川神社が三宮。四宮が秩父神社で、五宮が金鑚神社(どちらも埼玉)、六宮が神奈川の杉山神社である。
そして、総社が府中市にある大國魂神社になる。これは国府に近いので、参拝には便利だ。
小川大明神は以降、二宮大明神とも呼ばれるようになる。
天慶の将門の乱の時、藤原秀郷が乱平定の戦勝祈願をここでしたという。また、乱終結後にお礼のために社殿を建て、玉垣を造った。
秀郷がこの社に参拝したのは、秀郷の生国の近江国山王二十一社の二宮が、同じ御祭神の国常立尊を祀っていたからだという。
藤原秀郷は恐らく近江ではなく下野の生まれと思われるが(父は下野国大掾、母は同国の在地豪族の娘)、近江には秀郷の伝説が多いのは確かだ。
琵琶湖の瀬田の唐橋の大蛇の頼みを聞き、三上山の大蜈蚣を退治して、その礼に米が尽きぬ俵や、梵鐘をもらったという伝説がある。鐘は三井寺に奉納された。
そいえば以前、この将門を祀るシリーズでも書いた、幡ヶ谷不動尊荘厳寺の不動像が、元々は三井寺の智証大師の作で秀郷の念持仏だった。これも秀郷と近江に何か因縁を感じるが。
三井寺が秀郷伝説を広めたか、近江の蒲生氏(秀郷流藤原氏)あたりが広めたかわからないが、もしかしたらこの二宮神社に伝わる秀郷の話も、どこかでつながっているのかもしれない。
境内の摂社にはいろいろな神様がお祭りされているが、とりわけ興味深いのは荒波々伎神社だろう。小さな社の隣に、草履が奉納されている。
脛巾(脛当)をハバキと読むから、アラハバキ神(荒覇吐、荒吐とも)は、脚の神様などと言われてきたので、こうして草履が奉納されているのだろう。
しかし、柳田国男や吉野裕子はハハとは蛇のことでハハキは蛇神と書いている。門客神のことともいう。そういえば、寺社の門に巨大な草履が張り付けてあったりするのは、あれは門客神に捧げられたのだな。
一頃話題になった「東日流外三郡誌」で、アラハバキは縄文土偶に結びつけられたので、まるで縄文時代からあるように思われているが、あの遮光器土偶とは無関係だとしても、関東から東北は所謂蝦夷の国だから、この特異な神が蝦夷の神といってもあながち間違いではないかもしれない。
門客神は地主神だから、東国の地主はやはりアラハバキ神なのだな。
ところで、二宮神社のある阿伎留台地にはたくさんの縄文遺跡があって、二宮神社も遺跡の上にある。
神社のすぐ隣にあきる野市立の二宮考古館があり、市内の遺跡で発掘された出土品を見ることができる。
二宮森越遺跡からは縄文土偶や土器ばかりでなく、中世の頃の軒瓦も出土している。神社の東側には室町時代にこの辺りを支配した大石氏の居館跡とみられる遺跡も発掘されている。
神社の石段を下りて、鳥居の向かいの道を渡ったところに泉がある。ここも神社の一部の御手洗池。台地の崖下のいわゆるはけと呼ばれる場所から湧き出た泉だ。
とても水量が多く、水は透明で美しい。昔からどんな干天でも枯れたことが無いという。
こんな良い水があるから、古代から途切れることなく人が住み続けたのだと容易に想像できる。
小さな橋の奥にこれまた小さな祠があった。社宮司社というそうだ。御祭神はおしゃもじ様。
私の過去の記事をお読みになっている方は、「ああ。あれか」と思い出してくださるかもしれない。
咳の神様といわれるが、ミシャグジとか、石神ともいう。石神がセキジンとも読めるので、咳の神になったわけだ。
ミシャグジもまた、縄文時代からあった神という説もあるが、こればかりは文字の無い時代のことゆえ、永遠に謎だね。