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将門を祀る!築土神社(千代田区)
東京メトロ東西線の九段下駅で降りて、九段坂の出口から地上に出たのだが、これが失敗。地図で見ると築土神社は北の丸スクエアの横にあるのだが、実際には九段坂通りからだとビルが立ちはだかっていて中に入っていけない。
結局ぐるっと回りこんで、裏通りに漸く鳥居を見つけた。
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まるでビルの隙間に押し込められたような場所に神社はあった。
前回の筑土八幡神社の記事でも書いたが、築土神社がここに遷ってきたのは戦後のことになる。築土神社は最初、上平川村津久戸にあった。地名が津久戸なので、津久戸明神と呼ばれていた。
主祭神は天津彦火瓊瓊杵尊。相殿に平将門と菅原道真を祀る。創建は天慶三年[940]である。天慶三年は将門が討死した年だから、本来の主神は将門なのだ。例によって明治政府からにらまれないよう、将門は主神から相殿の神に坐を遷されたのだろう。瓊瓊杵尊は皇室縁の神様だから、文句はないよね、と。
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もちろん、筑土八幡町から持ってきたもの
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この神社には将門の首と髪、あるいは冠が祀られていたのだ。将門の首は京でさらしものになったが、縁者が密かに首桶に入れて坂東の持ち帰ったのだという。そして武蔵国豊島郡上平川村津久戸に観音堂を建てて津久戸明神として祀ったそうだ。観音堂の太刀佩観音は将門が深く信仰していたという。
将門の首はその後芝崎村に埋葬された。これが大手町の首塚である。
文明十年[1478]、太田道灌が江戸城の乾(北西)に社殿を遷して、城の鎮守とした。現在の北の丸、乾門の内側辺りというが特定されていない。
次に上平川村田安(現在の九段上田安台)に遷されたのは天文二十一年[1552]。元の場所が洪水に遭いやすい低湿地帯だったからとか、当時江戸城を所領していた北条氏康が家臣の遠山氏に命じて江戸城を改修させたためなどの説がある。この頃、田安明神と呼ばれていたようである。
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徳川家康が江戸入りすると、今度は下田安牛込見附(飯田橋)に遷座。これが天正十七年[1589]とされる。
そして前回紹介した新宿区の筑土八幡神社の隣に遷されたのが、元和二年[1616]のことで、それから昭和二十年[1945]に空襲で焼失するまでそこにあった。
昭和二十一年[1946]、千代田区富士見町の現在九段中学校の敷地になっている場所に再建される。これは長年、氏子が元々千代田区の田安にいるのに、神社は離れた新宿区筑土八幡町にあってとても不便を感じていたためで、区が無償で土地を提供した。社殿は田中土建工業社長田中角栄氏(もちろん後の総理大臣のあの人)が、これも無償で建設したという。田中土建工業は飯田橋にあって、築土神社の氏子だった。
しかし、そこに中学校を建設することになったので、築土神社の末社の世継稲荷の敷地に社殿を遷したのだった。昭和二十九年[1954]のことだ。
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ちょっとわかりづらいが繋馬が描かれている
将門の陣幕には繋馬が描かれていたという
子孫を称する相馬氏は繋馬を家紋としていた
築土神社の氏子の飯田橋商店街のシンボルにもなっている
世継稲荷は江戸切絵図で見ると田安稲荷となっている。二代将軍徳川秀忠がこの神社を参拝した時、境内に生えていた橙の木を見て、「代々世を継ぎ栄える宮」と称賛したことから、「世継稲荷」と呼ばれるようになったという。
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稲荷の社殿は築土神社のさらに奥に、窮屈そうに建っていた。ちょっと薄暗いが境内は清潔に保たれている。意外なことに、結構参拝者がいた。
ところで、空襲で焼失したのは社殿だけではない。ご神体の首桶も焼けてしまったのだ。
首桶は真鍮製の厨子に収められ、見ると目がつぶれるといわれて宮司でもめったに見ることはなかったそうだが、宝永五年[1708]に刊行された『牛込津久戸大明神略縁起』によると、神社の御内陣に首が朽ちることなく安置されていたという奇怪な記述がある。
ちょっと待て。すると大手町の首塚はどうなってしまうのか。確かに首塚を発掘したとき、石室の中身は空だったというが・・・。
大正時代に首桶を写した写真が残っている。丸い筒型で、蓋が開いた状態で撮影されているが、中身は見えない。しかし、もし中に首(頭蓋骨?)が入っていれば、写真なり文章なり残っていそうだがそれは無い。
ともかく首桶が焼けてしまった今では、永遠のミステリーである。
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昭和二十年三月十日の東京大空襲の夜、世継稲荷社司の山本岸太郎氏は
燃え盛る社殿に飛び込んでご神体を護って焼死した
その十年祭を記念し、総理大臣鳩山一郎氏の協賛でたてられた
築土神社は田安門の近くにある。田安門の傍にあるのが日本武道館。徳川御三卿の清水家、田安家の屋敷があったところだ。
平将門は勝負の神様ということで、築土神社は武道館の守護神になっているそうだ。
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見づらいが樹木の隙間に見える緑の屋根が日本武道館
右に見える高灯篭は靖国神社の常夜灯
手前の通りは九段坂