将門を祀る?筑土八幡神社(新宿区)
JR飯田橋駅を降りた。ここは江戸城の外濠にあり、牛込見附があった場所だ。その見附の門の遺構はホームから見ることができる。
見附は城の外郭にあり、検問所の役割をしていた。桝形に壁があり、その中を通らなければ出入りできないようになっていた。外濠に架かる橋を含めて見附といったという。現在は桝形門も無くなり、石垣の一部だけが残っている。
また、ここは海から運ばれてきた船荷を揚げる、揚場(牛込揚場)だったという。全国から運ばれてきた、米、みそ、醤油、酒、材木などがここから荷揚げされたのだそうだ。現在も揚場町という地名に名残がある。
現在、飯田橋駅付近は堀の上にビルが建っている。水路は暗渠になったが、地下でしっかりと通じている。
飯田橋の交差点から大久保通を厚生年金病院のほうに歩いていくと、筑土八幡神社に着く。町名も筑土八幡町という。
神社にかけて土地が高くなっている。台地の突端に神社はある。
筑土八幡神社の祭神は応神天皇、神功皇后、仲哀天皇の三柱。
嵯峨天皇の御代[810~824]、武蔵国牛込の里に八幡神を熱心に信仰する翁がいた。ある時夢で「汝が信心に感じ、跡をたれん」というお告げがあり、翁は目を覚まして身を清めようと井戸の所に行くと、傍らの松の木の上に旗のような長く美しい雲がたなびいていた。そして雲の中から白鳩が現れて松の梢にとまった。翁はこれを里人に語り、その松の木に注連縄を結いまわして祀った。
旗と鳩は八幡神を象徴している。これを知っていないと「旗のような雲から白鳩が」といっても、「それが何」という話になってしまう。
伝教大師(最澄。日本天台宗開祖)がこの地を訪れ、その話を聞いて、神像を彫って祠に祀った。その時に筑紫の宇佐の宮土を求めて礎としたので、「筑土八幡神社」と名付けたという。
その後、文明年間[1469~1487]に上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土神とし、江戸鎮護の神とした。
ただ、朝興は1488年生まれといわれるので、朝興より前の世代のことか、年代が間違っているかのどちらかだろうと思う。
本殿は昭和二十年[2945]の空襲で焼失したが、氏子の浄財により再建。その建設は準大手ゼネコン熊谷組が担った。その熊谷組の本社ビルは神社の向かいにある。
ここにかつて将門を祀る社があった。津久戸明神(築土明神)という。
最初は大手町の将門の首塚の近くにあったという。首塚の旧地名が上平川村津久戸であり、津久戸明神はそこからきた。何カ所か転々とした後、筑土八幡の隣に越してきたのは、元和二年[1616]、二代将軍秀忠の時代だった。江戸城外濠の拡張工事のためである。
それから昭和二十年まで三百二十九年間、筑土八幡の隣に鎮座していた。空襲により、築土神社の社殿は消失し、戦後に千代田区富士見町に移転する。(その後、九段北に移転)
同じ「つくど」だが、筑土八幡と築土神社では由来が違っている。八幡の方は、宇佐の宮土で基礎が築かれたから「筑土」というのに対し、築土神社は津久戸という地名からきている。
偶然同じ名称だったから、隣同士になったという訳ではなかろうと思うが、まぁ、氏子たちにとってはどうでもよいことか。
さて、ここ筑土八幡には天海僧正にまつわる伝説もある。天海僧正が将門の足を祀ったというのである。一体どういうことなのか。
そういえば首塚は将門の頭部で、神田明神は体を祀っていたという説があった。
筑土八幡が足なら、手はどこだろう。実は以前紹介した鳥越神社なのだ。(筑土八幡神社も鳥越神社もそういう話は残っていない。あくまで風聞である)
将門は五体をバラバラにされたのだ。足を祀ったのが天海だとすると、手を鳥越神社に祀ったのも天海だろう。神田明神を首塚のそばから移転させたのも、天海の指示があったと思われる。これも何かの呪法なのか。加門七海氏の説のとおり、北斗七星型に配置するのが目的か。
反逆者の体を七つに切り刻み、特定の地相の場所に埋めるという風習があったという説もあるが、将門の他にそんなことをされた例があるのだろうか。