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【ぶら近所】千川上水施餓鬼亡霊供養塔

 千川上水は西東京市の境橋のところで玉川上水から分水している。元禄九年[1696]将軍立ち寄り先の小石川御殿、湯島聖堂、東叡山、浅草寺などの給水を主な目的として作られた。設計は河村瑞軒。仙川村の徳兵衛、太兵衛が工事を請け負い、その功績により千川の苗字と帯刀を許された。
 上水はその後、農業用水としても利用を許された。
 昭和四十六年[1971]大蔵省印刷局王子工場が取水をやめたのを最後に、上水の役割はその使命を終えた。
 平成元年[1989]東京都の清流復活事業により、千川上水もよみがえった。

 練馬区と武蔵野市の境界を流れる千川上水の吉祥寺橋と東北裏ひがしきたうら橋の間の堤に、千川上水施餓鬼亡霊供養塔という、小さな墓石のようなものがある。

 餓鬼…亡霊……何やら、不気味な。

吉祥寺橋から上流(西)方向
左側が武蔵野市、右側が練馬区
奥の木立の下に供養塔がある

 Google mapで住所を見ると、そこは武蔵野市吉祥寺北町3-15-8と出る。
 あれ?区と市の境界は上水の中央じゃなかったのか。供養塔は練馬側にあると思っていたが。
 そこで武蔵野市のホームページで、市内の文化財や史跡で調べてみたが出てこない。
 では、練馬区ではどうかというと、供養塔の住所は練馬区関町南4-2となっている。

 練馬区教育委員会生涯学習課(文化財係)が発行する「ねりまの文化財・第60号・千川上水特集号」(平成16年[2004]3月)によると、上水で水難死した人々の霊を供養するために、明治41年[1908]3月に、地元の有志が寄進して建立したという。

台座
右ハ田無小金井道
北ハ関青梅街道々
左ハ吉祥寺停車場
井之頭道
背面
台座正面向かって左側
寄進者の苗字を見ると、今もこの近在に子孫が住んでいる人が多い。
右側
寄進者の村、名前、金額が掘られている
石工寅吉の名
後ろ
石神井村、武蔵野村吉祥寺、関村、竹下村、西久保村、土支田村、保谷村などの地名が見える

 昔は水量も多く、この辺りに堰もあって、落ちて死ぬ人もいたのだという。
 そういえば、筆者の子供時代(1960年代)、まだ千川上水が機能していたころは、大雨が降ると水があふれて西武新宿線がよく運転中止になっていたような…。

東北裏橋から
水量は大体いつもこのくらい
水は澄んでいてきれいだ
昔は石垣などなかったと思う

 現在、千川上水はほとんどが暗渠になっていて、この辺りは貴重な開渠の場所。そして、この風景である。

 畑の向こうに施餓鬼亡霊供養塔の寄進者の子孫、井口家の屋敷林が見える。屋敷林と畑の境を千川上水が流れている。屋敷林の右端の電柱のところに吉祥寺橋が架かっている。ここが一番昔の風景をとどめている場所ではないだろうか。

 そして、ここは筆者のお気に入りの散歩コースでもある。

柵の右に流れがある
都会でこの環境は贅沢だろ!

 この素敵な土の小道は、もう何十年も前から道路計画がある。昭和時代に立てられた計画だと思うが、まったく意味が分からない。ここを車道にしても、利便性が上がるとは思えない。何より、この環境のほうが貴重だと思う。どうか、計画を白紙に戻してもらいたい。でなければ、永久に忘れてて、お願い。

 でないと、祟るよ~~~。



 

 

 

 

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