カントと科学の関連性について
カント。
哲学に精通している人がこの名を知らないということはまずないだろう。カントの功績がどれだけカント以後の哲学者たちに影響を与えたか。
カントの哲学を全体として捉える時、以下の言葉がぴったりだろう。
「人間の認識能力には限界がある。それ故に、人間が認識できる範囲を今後哲学で扱うべきだ」
カントにこの言葉を聞かせるとこれは私の思想とはズレがあると言われるかもしれないが、私の解釈の範囲で、また、この記事を読んでいるみなさんに理解してもらうことを最重要として、この言葉を添えるとしよう。
カントは人間が認識できる範囲とそれ以外の範囲を分け、以降前者を探求すべき哲学の内容だとした。
では、その認識できる範囲とは何なのか。
まず、カントを知る上で「物事体」と「表象」について知る必要がある。
「物事体」とは、文字通り、対象物のありのままの姿ということである。
そして「表象」は、その物事体が人間の感覚器官を通って我々に見せる「物事体」らしきものということだ。
この時点で人間が「物事体」を正しく認識できないということが分かったであろうか。
もう少し分かりやすく、ブドウを例にして考えてみよう。私たちは見て、触って、食べて感じるブドウは私たちの脳がつくっている「表象」にしかすぎない。
私たちが抱いているブドウのイメージは「青紫色をしていて、丸い粒がたくさんあって、房になっている」だろう。
しかし、ブドウは本当に青紫色なのだろうか。ブドウは光を浴び過ぎると反射してまっしろく見えるし、逆に、暗いところへいけば、真っ黒に見えるだろう。
私たちが認識するブドウは本当のブドウの姿なのか。
私たち人間が目で見ることのできない紫外線もこれを見ることができる動物もいる。クモ、トカゲ、モンシロチョウなどが挙げられる。
また、動物の色覚がそれぞれ異なることも現代の科学の発展により明らかになっている。
つまり、人間は「物事体」を正しく認識することができず、私たちの感覚器官から織りなされる「表象」しか感じることができないということである。
ようやく今回の本題に入る。「物事体」についての考察と科学にどのような関連性があるのか。
それは、『カントがいう今後哲学が取り扱うべき内容を今日までに科学によって奪われてしまったということ』である。
科学は紛れもなく人間が認識できる範囲を探究してきた(今もしている)。哲学よりも明らかに科学の方が成果を出し、人類にとって大きな進歩を与えてきたのは確かだ。
私はここで疑問に思った。
「科学にわれわれ(哲学者)の仕事が奪われた以上、われわれは何をすべきなのか」と。
カントが提案した「人間の認識範囲で哲学しよう」ということを疑うことのないように、カント以降生まれたほとんどの思想が、相対的ではないか。これに何の実用性があるのか。
決して実用性がほとんどないことを指摘したいのではなく、あくまで〈人類への貢献〉という視点で見た場合、哲学の在り方を少し変えるべきだと指摘したいのだ。
※哲学における最大の貢献はコンピュータといえる(全く貢献してないわけではないことを誤解してほしくない)
今後哲学はどうするべきで何を探求すべきなのか、また相関主義や現代思想を超える心理を見つけるということが、哲学の本題になるという時代が来るかもしれない。
(=カントのいった「物事体」を認識できる日が来るかもしれない)
2024/4/7
(あとがき)
まず皆さんに詫びなければならないと思います。本記事の表紙画像に「今後の哲学の役割とは」としておきながら、内容にて答えを載せなくてすみません🙇
私はまだ未熟であるのと同時に、この記事も思索段階にも満たないものなので、今後の哲学の在り方についてこれから考えていきたいと思います。
皆さんもぜひこの記事をきっかけに考えてほしいと願ってます。
宣伝になりますが、以前僕が「時間とは何なのか」と考察した記事があります。
ぜひ哲学に興味がある人は読んでみてください
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