ゴミを拾えない自分
1月1日は多くのお店や施設が閉まっていて、道路は何時もより静けさを感じさせました。
初詣は事前に済ませていたので、行くところもない我が家は馴染みの公園へ出かけることにしました。
公園に着くと、駐車場の一角に散らかったゴミが散乱していました。
中身から誰かがそこで飲み食いしていたのでしょう。
通う公園は何処もゴミ箱が設置されていません。
誰かが捨てたゴミを拾って家で処分しようと迄は僕には思えませんが、ゴミを拾わない様子を子供たちに見せるのは抵抗があります。
プラスチックが無かった江戸時代でも、生ゴミを空き地や川へ投棄するのは問題視されていたことから、ゴミが生物分解されるかは重要ではないのかもしれません。
し尿の様に、肥料として再利用される等の利用価値が見いだせないとゴミを捨てるのは止まらないのでしょう。
プラスチックゴミが金銭的な価値を生み出せるようになればゴミは一気に減りそうです。
人間の歴史はゴミ問題と切り離せないので、ゴミのポイ捨てをしないことを子供に教えるだけでは足らず、そういった別のアプローチを一緒に考えていくことで何かのアイデアが産まれないか期待してしまいます。
道徳的な教育だけではなく、現実的にどう対処すべきかに興味を持たせることが肝要ではないでしょうか。
臭いものにフタをするのではなく、それを直視して分析し、思考を巡らせる事を大事にしたいと思います。