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『漱石全集』を買ったとき

ある時、書店にて『漱石全集』の再版が一ヶ月に一巻出るという予約を募っていました。(昭和49年12月9日 第二刷發行)
そのチラシの写真がここに掲載の写真と同じ朱色の装幀でした。一目惚れで、まだ若年で乏しい給料でしたが、かなり切り詰めて買うことにしました。

文学に興味を持ち、漱石以前に吉川英治の『宮本武蔵』を読んで、それを書くにあたって綴った『随筆宮本武蔵』も読みました。東京都青梅市にある吉川英治記念館などにも足を運んだことがあります。

古人を観(み)るのは、山を観るようなものである。観る者の心ひとつで、山のありかたは千差万別する。

吉川英治・随筆宮本武蔵(青空文庫)

本を読むとき、私は、このような一文で買って読むかが決まります。それだけ最初が肝心のような気がするのです。

漱石全集 第二巻

第二巻は、短編小説集です。この中に『草枕』があります。
超有名な書き出しの文が

 山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。

 智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。

 住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。

 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

『草枕』(青空文庫)

この『草枕』の書き出し文で、漱石全集を買ったようなものです。
その原文が

『草枕』の原文

少し大きめの字で、漢字も漱石が実際に書いた字を使っているものと思われます。読みにくいところには「ルビ」がふってあって、むしろそれがこの全集の良さでもあります。

漱石全集・全巻

重いので、本棚が歪(ゆが)んでいます。

私にとって本は、飾りでもあったので、じっくり読んだのは数が少ないのです。難しい哲学の本や、英語の教材など、引っ越しの見積もりを出すおじさんが来たとき、「いやー本が多いですね!勉強家なんですね…」と言われましたが、実は、只の見栄と飾りでした。
よく、引っ越し貧乏と言われますが、まさしくそうで、引っ越しする度にモノを捨てました。今まで何十冊の本を捨てたか数え切れません。中には古い本を貰って閉まっていましたが、「この先もきっと読まないだろうなあ!」と思い本を買い取ってくれるところに持っていきました。もしかしたら神田の古本屋に持っていったら、相当高値がつくのではないか?という本も価値がない本として受け取って貰いました。

それでも、引っ越しを繰り返しても、この全集だけは手放しませんでした。
ただでさえ生活が大変な若いとき、食事を切り詰めて買った大事な全集でしたから。夏目漱石にも申し訳ないとも。

最近は、老眼でピントが合わないし、すぐ疲れるし、パソコンやスマホ画面しか見ないし…なんて、勝手な理由をつけて読んでいません。それでも、この『草枕』だけは読み返すことにしています。

岩波書店 定本 漱石全集 


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