疱瘡(ほうそう)の姫君―花折る少将異聞―第三話
六
数日の後、少将は透子姫の邸にむかっていた。前回の訪問の時は、月明かりが満開の桜を照らし出していたが、今宵は闇夜である。桜もすっかり散って葉桜になっていた。
邸の近くまできたところで琴の音に気がつく。おかしいな、今までにこんなことはなかった。姫は雨の日にしか琴を弾かない。しかも戸を立て切って。こんなところまで音が聞こえてくることなど今までなかったのだ。
広縁に腰を下ろし、しばらく琴に聞き入る。曲が終わったところで、
「めずらしいですね。琴の音色で迎えてくれるとは」
と御簾越しに言う。
「雨の日にばかり弾いていたせいか、弦の調子が合わない感じがします。いかがでしたか」
「確かに言われて見れば少し」
そう言うと少将は中に入り、透子の隣に座って、琴の弦を調整する。
「あまりやりすぎると、雨の日に合わなくなるからこれくらいで」
「まあ、全然違う」
少しかき鳴らして、透子はにっこりと微笑んで言った。少将は徐におもむろに懐から横笛を取り出して、吹き始める。透子もそれに合わせて琴をかき鳴らす。少将の笛が美しく旋律をかき鳴らすと、透子はそれを後ろから支えるように琴を奏で、しばらくするとそれが入れ替わる。
二人の音色は絡み合うようにあたりに響いていく。雨の日に戸を立て切って演奏する時は秘め事のように熱を帯びた官能的な響きになるのだが、今日は簾を下ろしただけで格子戸を開け放っているので、音が外に広がっていく。部屋からこぼれ出るように庭の木々、そこに眠る鳥、遠くの河辺まで流れ出る。伸びやかな調べは心を解放していくようだ。演奏を終えて、少将は聞いた。
「それにしてもどういう心境の変化ですか。今までは雨の日以外は音が漏れるからと言って弾いてくれなかったのに」
透子は少将に向かって真っ直ぐに座り直して言った。
「そのことでございます」
実のところ、透子は少将になんと話したらよいか、ここ数日ずっと悩んでいた。女房として宮中に出仕することになったと話したら、この方はどんなに驚くだろう。人目を避けて生きてきた私のことを支えてくれたのは少将なのに、突然、最も人目につく場に出ていくなどと正気の沙汰とは思われないだろう。私だって最初はそう思ったのだから。それでも、このまま少将の愛情におすがりし続けるわけにはいかないのだ。
少将はまだ正妻を迎えていない。世間では花折る少将は好き者だからまだ正妻をもらいたくないのだろうなどと噂しているが、そうではないことを透子は知っていた。うぬぼれのように聞こえるだろうが、それは自分のせいなのだ。もし、透子がこんな身の上になる前であったならば正妻となることもできただろう。でもこんな身の上となった今ではそれは叶わない。召人として家に迎えられる方もいると聞くが、召人とはつまり使用人であり、それはさすがに透子の自尊心が許さなかった。結局、少将と透子の二人はいくら想い合っても、このままでいるしかないのである。少将はそういう透子の立場を慮って、正妻を娶ることをしないのだ。
どうにも動けない自分達に気づいていながら、透子は見てみぬふりをして今まで過ごしてきた。でももうそれは終わりだ。自分でここから抜け出そうと決心したのである。
「弁内侍さまを覚えておいでですか」
「ああ、殿上童だった頃、兵衛佐たちと清涼殿で悪戯をしてよく叱られていた。出家なさったと聞いたが」
「はい、出家して大原にいらっしゃったのですが、先日こちらに会いにきてくださったのです」
「ほう、それで」
少将は素知らぬふりをして言った。透子は何かを言おうか言うまいか逡巡しているように見えた。視線を琴に落とした後、すっと息を吸って、真っ直ぐに少将を見据えて言った。
「尼君の孫の広姫様が、この度、帝に入内なさるとのこと。そこで私に女房として出仕しするようお話があったのです」
透子は少将の言葉を待つ。少将は突然の話に混乱していた。やはりあの日見かけた姫君は帝に入内する方だったのか。そして透子がその方の女房として出仕するとは、いったいどういうことなのだ。
「無論、お断りになったのでしょう。わざわざ嫌な思いをしにいくようなものではありませんか」
「いえ、お受けすることにいたしました」
一瞬、耳を疑った。
用心深く人目を避けて生きてきた透子がどうして今になって。しかもかつて女御に、と望まれた方が女房になるなどということがあってよいのか。
「私とのこのような生活がお嫌になってしまったのか。もう私のことなど…」
少将はそう言うのが、精一杯だった。
「違います。私は少将殿をお慕い申し上げております。でもこのままでは少将殿は私のために正妻を迎えることもできず、御出世にも影響いたします。いつまでもおすがりしているわけにはいかないのです」
「あなたにそんなことを言わせるとは情けない。私が出世のために権門から正妻を迎えたいと考えるような男だとお思いなのですか。それともまさか」
少将の心に突然疑いの心が生まれた。もしやあの方のもとに、かつて透子の入内を望んだ帝のもとに行こうとしているのではないか。そして帝もまた、透子が女房として後宮に入ったならば、帝は透子を我がものにするのではないか。むくむくと内側から抑えきれない疑念が湧き上がって来る。
「あなたは、あの方のもとに、帝のもとに、行こうとしていらっしゃるのですね」
「急に何をおっしゃるのですか」
今度は透子が驚く番だった。かつて帝に入内する話があったことは七年前のあの事件とともに心の奥に封印している。遠い過去の出来事であり、それについては何の感情も動くことはなかった。
「少将さまは、何か思い違いをしていらっしゃいます。私は女房として自分の力で生きてみたい、ただそれだけなのに。帝のことなど私は考えたこともないというのに」
透子は震える声で言った。驚きと戸惑いと怒り。体の芯が熱く震える。とその時、突然、少将が透子の肩をつかみ、乱暴に後ろに押し倒した。
「たとえあなたが望まなくとも、帝は、自分が望むものはこうやって手に入れることができる。後宮とはそういうところなのです」
少将はそう言うと、強引に透子の唇を奪った。透子は精一杯の力で少将を押し返しながら必死で言う。
「私はもう決めたのです。少将さまにもわかっていただきたかった。ただそれだけなのに」
透子の目から涙がこぼれる。少将は力なくその場に座り込んだ。透子は少将に背を向けて起き上がると、もう何も言わなかった。どんな言葉で言い尽くしても今の少将には伝わらないだろうという気がしていたのだ。しばらくの沈黙の後、少将が、
「すまぬ。今日は帰る」
と、透子の肩越しに言った。そして立ち上がると、振り返ることなく簾の外に出ていった。
庭に出て光季を呼ぶ。こんなに早い刻限に帰ることになるとは思っていなかったのだろう、驚いた様子で走って来る。
「松明の用意がまだでございます。しばしお待ちを」
少将は空を見上げ、光季を呼び止めて、
「松明はいらぬ。ついて参れ」
と言って歩き出した。一度だけ振り返って透子の姿を探すように見遣ったが、誰の姿も見えなかった。
月はなく星の光が冴え渡っている。満天の星空であった。少将は邸とは反対の方向に歩き出した。法成寺の南を抜けて、鴨川の土手に出る。そのまま土手の草わらに座ると、少将は懐から横笛を取り出して吹き始めた。
光季は少将の少し後ろに腰を下ろしている。笛の音が川面に響き渡る。泣いているようだと光季は思う。少将の切なく苦しい胸のうちがそのまま音色になって響いている。春の生暖かい風が川向こうから吹いてきた。この風に乗って、笛の音が透子姫まで届けばよいのにと光季は思う。さっき、二人睦まじく合奏なさっていた時のあの優しい音色が、こんなにも切ない音になるなんて。自分まで泣いてしまいたいような気持ちになる。
喧嘩でもなさったのかと光季は考えを巡らす。さっき透子姫の邸で控えていた時、侍女たちがひそひそと何やら話していた。そして、少将殿は透子姫のことをどうお考えなのか、妻として迎えるつもりはあるのだろうかと侍女の一人が光季に探りを入れてきた。光季は、少将は透子姫を一番に考えていて、ゆくゆくはきっと、とそこまで言って口ごもってしまった。十四歳とはいえ少しは大人の世界のこともわかってきた光季は、少将ほどの貴族の家柄ともなれば、結婚が互いの気持ちだけでうまくいかないことを知っている。もちろん透子姫は故大納言殿の姫君。血筋を考えれば申し分ないのだが、世間を騒がせた疫病のことを考えるとそう簡単に事は進むまいと思われた。それにいてもなぜ今になってこのことが話題に上ったのだろうか。触れてはいけない禁忌のように扱われてきたはずなのに…。
突然、笛の音が止んだ。光季はそっと少将の顔を盗み見る。少将は川の向こうの夜空を見つめていた。その横顔にきらりと光るものが見えたような気がした。慌てて目を逸らす。そのままじっと体を固くして時が過ぎるのを待った。
しばらくすると、川の向こう、東の山の端から下弦の月が現れた。赤い光を帯びて輝くその姿は光季には不気味な生き物のように見える。もうそろそろ帰りませぬかと小さな声でつぶやくと、少将が振り返って言った。
「光季は、あの荒れ屋敷の家の者と懇意になったのか」
「それはまあ」
と光季は口ごもった。実は、光季は清水詣に行かず留守番をしていたあの女の子とすっかり打ち解けていて、時間を見つけてはこっそりと会っているのだった。
「図星だな」
少将は力なく笑う。そして、
「お前に相談したいことがある。力になってくれるか」
と言うと、声を潜めて話し出した。(続く)
創作大賞への応募はここまでです。続きは下の通りです。