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「疱瘡(ほうそう)の姫君―花折る少将異聞―」第一話

【あらすじ】
時は平安、人目を避けて隠れ住む透子姫のもとには、花折る少将と世間で噂される貴公子が通っていた。透子はかつて帝への入内が決まりながら疫病流行の元凶だと濡れ衣を着せられた姫君だった。帝に新たな姫君が入内することになり、透子は女房として出仕する決心をする。帝に複雑な思いを抱える少将は透子の出仕を阻止するため、入内予定の姫を盗み出すが、盗んだはずの姫は尼である姫君の祖母だった。尼君や周囲の者達の助けを借り二人は堂々と生きる道をつかむ。

第一話

ほの白い光に包まれているような気がして透子とうこはふと目が覚ました。今宵は十六夜。月の光が格子戸越しに差し込んでくる。

「もう夜が明けたのか、なんとも早い夜明けよ」

こちらに背を向けて寝ていた少将はそそくさと起き上がって帰り支度を始める。透子も急いで身支度を整え、見送りの準備をする。

「もう少し居てくだされば良いものを」

お決まりの引き止めの言葉を口にして直衣の袖をそっとつかむが、少将の君はその手を握り返すと、

「また来る」

と言って優しく微笑んだ後、御簾から滑り出るようにして去っていった。

御簾越しに月が見えた。透子は月に誘われるように縁側に出ると、月の光が庭の桜を照らし出していた。まだ暁というには早い時刻だ。それなのに早々と帰って行ったのは自分のせいだと透子は思う。

桜の花びらがはらはらと散る。雪がこぼれるようだと思った。涙が溢れた。


「十六夜の月に騙されて、早々と出てきてしまったな」

少将は姫君の邸のほうを振り返りながら誰に言うわけでもなく一人呟く。本当はわかっていたのだ。まだ暁には早いということは。今日の姫君は自分との逢瀬に夢中になっていなかった。どうしたのかと尋ねてみれば良かったものを、きっと答えてはくれないような気がして共寝をしているのに寂しくなった。その寂しさに耐えきれず、そそくさと出てきてしまった。冷たい態度だったか、もう一度引き返して話を聞こうかと逡巡する。その気配を察してか、小舎人童の光季が、

「お戻りになりますか」

と聞くが、

「いや、いい。このまま帰ろう」

と答えて、歩き出した。

夜明けにはまだ早く、物音もしない。遠く川のせせらぎが聞こえるだけだ。月明かりがそこここに咲く桜の木々を照らし出している。桜が白い霞となって夜の都を包んでいるようだ。桜に誘われるままに歩いていると、築地が少し崩れた邸の前に出た。ずいぶん庭が荒れている。中からは女たちの話し声が聞こえてくる。少将の君は光季を連れて、垣根の隙間から中の様子をのぞいてみた。

「夜が明けたらすぐに出かけましょう。ちょっと見ていらっしゃい」

と声がする。邸の中から、十二、三歳くらいだろうか、目鼻立ちの整った女の子が顔を出す。月の明かりに扇をかざしながら、「月と花とを」と古歌を口ずさんで桜の木に向かって歩いてくる姿は、精一杯背伸びをして大人ぶっているところが何とも可愛らしい。

「私だけ留守番なんてつまらない。ずっと楽しみにしていたのに。清水の観音様のお告げを受けられないなんて、本当にひどい」

どうやらこれから清水詣に行くらしい。この少女は何か訳があって留守番なのだろう。

そのうち支度をした女性が家の中から出てきた。この家の女主人であろうか、青鈍色の衣の上に袈裟を着た尼君が侍女と一緒に階を降りてくる。格子戸の方を見遣って、さあ姫君、こちらへと呼ぶ声に、少将は聞き覚えがあるような気がした。目を凝らして見つめるが、尼姿のせいか誰とも思い出せない。そうこうしているうちに、姫君と思しき少女が現れた。桜色の衣の上から薄い絹を肩にかけた、すこぶる愛らしく上品な姫君であった。

光季は少将の顔をそっと盗み見る。透子姫の邸からの帰りだというのに垣間見をするなんて、これでは先ほどお別れしたばかりの透子姫様がお可哀想ではないか。がしかし、少将の表情は光季が想像していたものとは違っていた。少将の視線の先は姫君ではなく、尼君のほうに向けられていた。訝しむような表情でじっと見つめている。光季がもっとよく見ようと、一歩前に出ようとした瞬間、足元の小石がガリッと音を立てた。少将の君は、ハッと我に返ったようだった。そして光季に帰るぞと手で合図をして、そっとその場から離れた。

気がつけば、夜が白々と明け始めていた。

朝になって、光季が透子姫のもとに後朝の文を持ってやって来た。後朝の文とは逢瀬の翌朝に男から女へ送る手紙のことである。青い柳の枝に手紙が結び付けられている。

「明け方というにはまだ早い時刻に帰って来てしまいましたのは、あなたのつれない態度のせい。本当はもっと一緒にいたかったのに。

さらざりし古(いにしへ)よりも青柳のいとどぞ今朝(けさ)は思ひ乱るる

もっと愛情を見せてくれたかつてのあなたを思うと、今朝はこの糸柳のように心がぐしゃぐしゃになってしまって、いっそう切ないことです」

 透子は昨晩の逢瀬のことを思い起こす。

庭の桜が満開だった。十六夜の月明かりを吸い込んだような、蒼白い花びらの桜の木々は妖しいまでに美しかった。まぶしいほどの月の光が夜の闇を追い払って、部屋の中にいてもほの白い光に包まれているような気がした。少将が、透子の右腕に残る疱瘡の跡にそっと口づける。右腕から背中へと少将の唇がつたっていくに従って、透子の体は露わになっていく。透子の白い肌が浮かび上がる。不意に、心の奥に押し込めて忘れようとしていた自らの禍々しさが月の光に照らし出されているような気がして恐ろしくなる。お前は禍いを身にまとっているのだという声がどこからか聞こえてきたような気がして、思わずぎゅっと目をつぶった。

少将はそんな透子の動揺には気づいていないようで、いつものように透子の体に残る疱瘡の後に口づけを終えると、

「大丈夫、私がずっとお守りしますから」

と言って背中から透子を抱きしめる。背中に少将の体温を感じて、少しずつ心が和らいでいく。そっと目を開けると、部屋の隅で揺らいでいる灯台の火が目に入った。大殿油を吸い上げて炎が一瞬大きくなる。その瞬間、あの火事の日の出来事が走馬灯のように透子の脳裏を駆け巡り、思わず叫び声をあげそうになった。透子は必死で声を抑えた。今夜の私はどうかしている。近頃ではこんなことも少なくなっていたのに。

気がつけば後ろから回された少将の手をしっかりと握りしめていた。少将はそのまま横にそっと倒れ込んで、透子に口付ける。あとはいつもの通りだ。透子は少将の君に取り乱した心のうちを悟られたくなかった。流れに身を任せながらも、早く終わってほしいと願った。ただ時が過ぎて、事が終わるのを待った。


 歌の内容に合わせた、薄い緑の紙に美しい文字。私よりも三つ年下だと言うのに、大人びて雅みやびやかな少将の君。昨夜はあんな態度を取ったのにこうして文を見ると嬉しくなってつい笑みがこぼれてしまう。

光季に、

「昨日は月がきれいだったから、きっと素敵な場所に寄り道したのでしょう」

とさりげなく聞いてみた。透子の恋人の少将の君は、世間では花折る少将と呼ばれていた。花とは女性のこと、つまり多くの恋人を持つ好き者という意味である。不思議と透子は少将に自分以外の恋人がいると感じたことがない。それに、自分自身の身の上を思えば、もしそうであってもやむを得ないのではないかという諦めの気持ちもどこかにある。それでもやはり気になるのである。

「桜を眺めながらまっすぐ帰りましたよ」

と答えて光季は目を逸らした。ああ、この少年に嘘をつかせるようなことを聞くのではなかったと自分の浅はかさを後悔しながら、返しの歌の準備をする。

「かけざりし方にぞはひし糸なれば解くと見し間にまた乱れつつ

もともと私にはさほど思いをかけていなかったのでしょう。ようやく打ち解けてこれからという時に、あなたという方はまたよその方に心を奪われて思い乱れていらっしゃるなんて。本当に浮気な方だったのですね」

と、香を焚きしめた薄桜色の紙に書く。

光季は文が仕上がるまで庭の桜を見ながら待っている。小舎人童と言っても、十四歳の少年である。男女の仲について知らない年でもないから、昨晩の帰り道のことをうまく誤魔化せなかったことが気にかかっていたらしく、言い訳するように話し始めた。

「世間では、少将のことを好き者で大勢恋人がいるって噂しているけど、本当はそんなことはなくて、」

少し言い淀んだ後、思い切ったように続けた。

「文をかわす方は何人もいるけど、こうして深い仲になっていらっしゃるのは、」

「それ以上、言ってはだめ。主人の恋路を勝手に話すのは無粋なことよ」

透子はにっこり笑って小さな声でありがとう、とささやくと、手紙を預けた。耳を赤く染めた光季は小走りで帰っていった。

少将の邸に向かいながら、光季は先ほどの透子姫の、切長の美しい瞳を思い出していた。まだ元服前のこの少年は、少将の使いとしてたびたびこの姫のもとを訪れていた。いつもお優しく、気品があって凛としたこの姫のことが光季はたまらなく好きだった。少将もまた、精悍さと美しさを持つ青年である。世間で言われているような、誰とでも関係を結ぶような軽薄な方ではけっしてない。ただ、文を交わし、御簾越しに会話を楽しむ、そんな相手は大勢いる。本当に不思議な方である。もしや少将は、透子姫を世間の目から隠すために大勢の恋人がいるように振る舞っているのではないか、そんなふうに思うこともある。自分は大人になってもそんな器用なことはできそうにないなと光季は思いながら、昨夜見かけたあの女の子を思い出していた。留守番をしていると言っていたが、ちょっと寄り道してみようか。

雲雀の声がどこからか聞こえる。春の陽気に背中を押されるように、光季は足取り軽く駆け出していた。


   三

「昨夜はどこの姫君のもとに隠れていたのだ。帝が急に管弦の遊びをやると言い出したから、お前のことも呼びに行かせたのだが、見つからなかったぞ」

少将の邸には幼馴染の源中将と兵衛佐がやって来ていた。少将は光季が届けた透子姫の手紙をさっと文箱に隠すと何食わぬ顔で、

「おかしいな。昨日はこちらで休んでいたのになあ。おかしなこともあるものだ」

と嘘をつく。幼馴染の二人はニヤリと笑って、

「よくもまあそんな白々しい嘘を言えるな。さあどちらの姫君のところに行っていたのか、白状しろ」

と少将を挟んで両側に座った。これはじっくり話してもらうぞ、という合図である。

「先月も帝は十六夜の晩に、急遽、管弦の遊びをやると言い出して、お前を呼びに行かせた。

あの日もお前はいなかった。これはどういうことだ」

兵衛佐が聞く。

「偶然だろう。月の美しい晩に出歩くなんてよくあることじゃないか」

「帝は疑っているぞ。十六夜の晩にお前がこっそり通っているのは、かつての疱瘡の姫君ではないかと」

少将は兵衛佐を一瞬にらんだ。そしてすぐにいつもの穏やかな顔に戻ると庭のほうに目をやって答えた。

「疱瘡の姫君などという方はいない。そんなもの、疫病を恐れた都人が勝手に作り出したものだと知っているだろう。それなのに帝は」

三人はしばらく黙って庭の桜を眺めた。そして、それぞれにあの七年前の出来事を思い出していた。

まだ十四歳であった三人は殿上童として宮中に出入りをしていた。同い年であった帝はこの三人が殿上の間に来ていると、呼び寄せて小弓や蹴鞠の遊びを楽しんだ。もちろんそれだけではない。この年頃の男の子が集まれば当然女の話になる。帝だけは元服し、三つ年上の妃がいた。まだ経験のない三人はなんとか話を聞き出したいのだが、帝はただにこやかに微笑むだけで何も話してはくれなかった。元来おとなしくおっとりとした方だった。

その年、五節の舞姫に選ばれた姫君たちは例年にもまして美しいと評判であった。三人は舞姫たちについての噂話を集めては語り合った。かつて五節の舞姫は帝のお手つきになるということもあったらしいが、三人はその心配を全くしていなかった。帝は彼らの話に興味を示さなかったし、早くに女人をあてがわれたせいか、かえってそういうことに淡白であるように感じられたのである。

いよいよ、帷台の試みの日。この日だけは殿上人も五節の舞を見ることができるのだが、

少将はーもちろんこの頃は「少将」ではなく、森丸という幼名で呼ばれていたのだがー大納言家の姫君ー透子姫を見て、一目で恋に落ちた。音楽と一つになって袖を振る姿、檜扇の後ろにのぞく切長の美しい瞳に心を奪われた。この行事が終わったら、さっそく歌を贈ろう。大納言家ならば家柄も申し分ない。元服したら妻に迎えたいと父君にお願いしよう。少将は胸が高鳴った。こんなことは初めてであった。嬉しくて夢中で帝と二人の友に話をした。二人の友は少将の熱量に圧倒されながらも、友人の初恋が実って結婚にまで辿り着くのを見届けたいと願った。帝だけが不思議なものを見るような目で、何も言わずじっと少将の顔を見ていた。
しかしそのことに、誰も気付いてはいなかった。

ひと月ほどして、少将は父君から呼ばれた。

「お前が執心している大納言家の姫君だが」

父君はいったん言葉を区切ってから続けた。

「急なことだが、入内が決まった。帝の強いお望みじゃ。年が明けたらすぐにでもとのこと。

もう文など出してはならぬぞ」

少将は言葉を失った。帝は自分の気持ちを知っている。先日参内した時にはなんの素振りも見せなかった。それなのになぜ。

「はい」

ようやく声を振り絞り答えた。それから後のことは覚えていない。悔しくて泣いたのだったろうか…。

年が明けて、都に疫病神が現れた。疱瘡の神である。こともあろうに発端は大納言家だと言う。娘の入内の準備を進めていた大納言殿は病に倒れ、亡くなった。疫病はあっという間に都に広まった。人々は家に閉じこもり、この疫病神が都を通り過ぎるのをひたすら待った。それでも都大路には死体が転がった。五節の舞姫を勤めたうちの二人の姫君も亡くなった。と同時に怪しい噂が世に流れ出した。大納言家の姫君は五節の舞を舞った時に、帝だけではなく疱瘡の神にも見染められたのだ。姫君には不思議なことに一つも疱瘡の跡が残っていないと聞く。これがその何よりの証拠だと世の人々は勝手なことを言った。疫病の勢いは止まらなかった。死人が増えるにつれ、人々の悲しみと怒りの矛先は大納言家に向かった。姫君が疱瘡の神を都に招き入れたのだ。ここから出て行け。大納言家に石が投げ込まれ、火が放たれた。入内の話はおろか、もはや大納言家の人々の生死すらつかめなかった。都も、都の人々の心も荒廃していった。


「あの時、帝は何もしなかったな」

兵衛佐が呟く。

「たかだか十四歳の帝に何ができたというのか。それは我らとて同じこと」

源中将が言う。

しばらく経って、ようやく少将が口を開いた。

「あの時、都中の人々のスケープゴートにされた透子姫を、帝は放っておかれた。自ら入内を望んでおきながら、いざとなると見捨てなさったのだ。今さらわたしが誰のもとに通おうが帝にとやかく言われる筋合いではない」

「お前はやはり、そうなのか」

兵衛佐がまじまじと少将の顔を見つめて言った。

「さあな、どうだか」

少将は答えなかった。沈黙が流れる。庭の鑓水の音がやけに大きく聞こえる。

耐えきれなくなったのか、源中将が話し始めた。

「そう言えば、まだ内密の話だが、とある深窓の姫君が帝に入内するという話があるらしい」

「深窓の姫君というのは」

急に色めきだって兵衛佐が聞く。

「それがはっきりしないのだ。帝の妃は左大臣家の姫君ただ一人。しかも皇女しかおらぬ。そこで新たな姫を、ということらしいのだが、左大臣家としては面白くない。邪魔が入るようなこともあるかも知れぬからと、慎重に事を進めているらしい」

少将はこの話を聞きながら昨夜垣間見たあの姫君のことを思い出していた。

まさか、あの姫君だなどということはあるまい。

風がざあっと吹いた。満開の桜がはらはらと舞う。源中将が即座に歌を詠む。

飽かで散る花見る折はひたみちに 

  名残惜しくも散っていく花を一緒に見たいとひたすら願っています

兵衛佐が下句を続ける。

我が身にかつはよわりにしがな  

  もし叶わないなら、私はつらくてこの花と一緒に弱って散ってしまいたい
  ものです

当意即妙に歌を詠むあたり、さすがである。それでも、少将は、

「自分も花と一緒に散ってしまってはどうしようもないだろ」と言って、

散る花を惜しみとめても君なくは誰にか見せむ宿の桜を

  あなたでなければ駄目なのです。我が家の桜を見せるのは。そう思って
  あなたが来るまで桜が咲いているように大切に世話をしているのですよ

と詠む。

源中将と兵衛佐は顔を見合わせると、さすが花折る少将と評判だけのことはある、こうやって口説いているのだなと少将を冷やかした。歌のついでに昨日見つけた姫君のことを話そうか話すまいかと迷ったが、この二人のこと、あの姫君に抜け駆けしないとも限らない。今はまだ黙っておいた方が良さそうだと少将は判断した。そして、三人は連れ立って少将の父殿の屋敷に向かった。供のものにはそれぞれ楽器を持たせている。花見の宴に呼ばれているのであった。


   四

満開の桜に夕暮れの日が差し込んでいる。時折さっと風が吹いてはらはらと花びらが散っていく。御簾を巻き上げて、庭が眺められるように部屋がしつらえてある。中では、少将が琵琶、源中将が横笛、兵衛佐は和琴を弾いている。音色はもちろんのこと、三人それぞれに美しく、その優雅な手さばきを侍女たちがうっとりと見つめている。曲の終盤、琵琶が激しく掻き鳴らされ、春の嵐に包まれたかと思うと、柔らかな雨音のような響きに変わる。

少将の、上気してほんのり赤く染まったこめかみと憂いを帯びた目元はなんとも艶あでやかで美しかった。

満足そうに眺めている父君とは対照的に、母君は深いため息をついていた。源中将はこの三人の中の出世頭である。十五歳で元服すると早々に名家の姫君を妻にした。妻の実家の後ろ盾もあり、同世代の者の中で頭ひとつ抜きん出る出世ぶりである。兵衛佐は真面目で実直な男であると評判である。こちらも去年妻を迎えた。それにひきかえ我が息子は、正妻を迎えることもせず、あちらこちらの女性と浮名を流してばかりいる。そして世間では花折る少将などという不名誉な名で呼ばれている。母君は自分の子にそのような浮気で不誠実なところがあるなどと信じたくなかった。そうして、なぜこんなことになったのかと考えれば考えるほどに結局は同じところに行き着いてしまう。

天性の明るさを持っていたはずの息子は七年前のある出来事を境に内に闇を抱えてしまった。誰のせいでもないことはわかっていた。無論あのお可哀想な姫君のせいでもない。ただ偶然のなせるわざであり、如何ともしがたい悲劇が起こったのだと受け止めるしかない。わかってはいる。それでもあの出来事は、まだ十代の半ばにもならなかった我が子を傷つけ、人間そのものへの信頼を失わせてしまったのではなかったか。それがこのような軽薄な行為へと彼を駆り立てているのではないか。

「北の方様。そろそろ宴会の支度が整いました」

声をかけられ、ふと我に返る。そうだ、こうしてはいられないと、母君は腰をあげた。

 日がどっぷりと暮れ、酒も進むと、勢い女性の話になるのがこうした宴会の常である。男達に気を遣って、侍女達は少し離れたところでこちらもまた都の噂話に花を咲かせる。近頃、白拍子などという踊り子が宮中にも出入りしていて、その中には零落した姫君もいるらしいと誰かが言う。あるいは、かつて宮中きっての才媛といわれた大原の尼君が、孫娘を連れて都に戻ってきているらしいなどと話す者もいる。少将は用心深くこれらの噂話に耳を澄ませた。都の中で身を潜めるように暮らす透子姫のことが人々の口の端に上るような事があってはならないと聞き耳を立てるのが習慣になっていたのであった。

「はて、大原の尼君とは誰のことだったか」

兵衛佐がおどけた口調で聞く。

「先の帝にお仕えしていた弁内侍様のことですよ。歌の才はもちろん、舞もお上手でたいそうお美しい方でした」

年配の侍女が答える。

「弁内侍様の孫娘ならさぞかし美しいのだろうな。お父上はどなたか」

今度は源中将が聞く。

「何年か前にお亡くなりになった源中納言の姫君と聞いております。まだ十五歳だというのに昨年母君も亡くされたとか。尼君様が大原に引き取って暮らしていらっしゃると聞いていたのですが」

「そうか。それがなぜ都に出ていらっしゃったのだ」

「そこまでは。大変お美しい姫君だと聞いてはおりますが」

「一度お目にかかってみたいものだ。お住まいはどちらか」

少将が軽い口調で聞く。さすが花折る少将、美しい姫だと聞くと放ってはおけないのだなとその場にいる者たちが冷やかして笑う。少将も一緒になって笑っているが、実のところ昨晩見かけた姫君ではないかと、確かめてみたくなったのであった。母君は少し離れたところから険しい表情でその様子を見つめていた。侍女達は主人の機嫌を損ねてはならないと思ったのか、

「さあ、どちらとは聞いておりませんが、桜の木が多く植えてある、古いお屋敷を仮住まいにしていらっしゃると聞きました」

と答えると、そそくさと退出してしまった。


「弁内侍様か。懐かしいな。まさか尼になっていようとは」

源中将が盃を片手に少将ににじり寄って隣に座った。

「私は侍女達に聞くまで、すっかり忘れていたよ。あの頃のことは霧がかかったようにかすんでいてよく覚えていないのだ」

それを聞いた源中将が、

「殿上童だった頃、よく叱られたではないか。特に兵衛佐が蹴鞠を空に蹴り上げてそのまま承香殿に入って行った時は三人でこっぴどく怒られた」

「あれはお前たちが唆したからだ。まあ私もお顔はあまり覚えていない。涼やかな声は耳に残っているのだが」

と兵衛佐。続けて少将が他の者には聞こえないように言う。

「実は昨日、某所からの帰り、桜の咲き乱れる荒れ屋敷に住む姫君を見た。確かに尼姿の女性もいた。どこかで聞き覚えのある声だと思っていたが、弁内侍様だったのかも知れない」

柱にもたれかかっていた兵衛佐が急に体を起こして言った。

「やはり昨日はあの方のところに出かけていたのだな。しかもその帰りにまた別の姫君を垣間見するとはどういうことだ」

「まさかこっそり手を出すつもりだったのではあるまいな」

と源中将。

源中将も兵衛佐も酔った上での笑い話のつもりだ。少将が世間で言われているほどの浮気者などではなく、むしろ誠実な男だということは二人がよくわかっていた。ただ、帝がこの問題に絡むとなると話は別である。帝に対するわだかまりが強く少将の中に残っていることもこの二人はよく見抜いていた。

「帝に入内するはずの姫だとしたら大変なことになるぞ」

源中将がぽつりと言う。

少将は返事をしなかった。ただじっと夜の闇を見つめている。

少将は考えていた。帝は今になってなぜ新たな妃を迎えようとしているのだろうか。七年前、透子姫にあのような恐ろしい禍いが降りかかって以来、帝に入内した姫君はいらっしゃらない。帝が強く拒んでいるとのことだった。それなのにどういう心境の変化か。もう透子姫のことは過去のことと割り切ってしまわれたか。それでよいのだと思う一方で、なぜか釈然としない思いが残る。

 帝より先にその姫君を我がものにしたら……。

 慌ててその思いを否定する。何を考えているのだ。先ほど源中将も言っていたではないか。それに何よりも、透子姫にこれ以上悲しい思いをさせるわけにはいかないのだ。

しばらく沈黙が続いた後、そろそろ帰るかと源の中将が立ち上がった。二人も後に続いた。

第二話

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#創作大賞2024 #漫画原作部門

第三話
https://note.com/preview/nbe132f326962?prev_access_key=4bcc11726178c5217917bb1d3169a9dc


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