シュタイナー/ハードボイルド
シュタイナーはカント、ゲーテの研究で業績をあげている。
彼が20代の頃、ロシアでは文豪ミハイル・ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を(未完)執筆している。
小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』にもあるように、ドストエフスキー自身は…カントの『純粋理性批判』からニヒリズムを俯瞰してみせる。
セミパラチンスクという、ロシアの原発事故があったところに、彼は流刑された。
その当時の写真を観たことがあるが、ドストエフスキーはボケッとした顔つきで現地の人と椅子に座っている。
恐らくはこの次期に、カントを読んでいたのだろう。
カントの物自体…という概念は、人間が言葉によって恣意的に差異化されていることを暗示している。
物自体の向こう側に、時間の概念がない量子のもつれ、5次元のケルビム、タイムリープの可能性を感じさせてくれる。
ところで『罪と罰』と小林秀雄の本…
ドストエフスキーの生活なんですが
ラスコーリニコフが振り下ろした斧…
それは、全体か無か?
それは、神にたいする問いかけであった。
しかし、その問いかけ自体が違う。
そこいらへんが
ニーチェのニヒリズムとドストエフスキーの絶望と異なっている…。
ドストエフスキーはここで大衆、人間に信頼を抱く
カントの時代、神秘思想家スウェーデン・ボルグが異星人とのコンタクトを行っていたという話が残っている。
皮肉なことに
ドイツの近代哲学は、カントの登場とともに、一瞬にして暗礁に乗り上げる。
少し時代はずれるが
フランスの自然主義文学…フローベール
『ボヴァリー夫人』
モーパッサンと、無残な現実を描き出す。
この無神論がやがて実存主義になるが
アルベール・カミュの実存と
サルトルの実存は、異質だと思う。
アメリカ文学史という京都大学の教授が戦後に書いた本の中に
ハードボイルド文学について説明してある。
いはゆる、文体、比喩(メタファー)を産業化社会、アメリカ資本主義が生み出した、石鹸、ナイロン、コーンフレーク…これらをふんだんに比喩に用いる…とハードボイルドの文学形態となる。
ヘミングウェイの『武器よさらば』は、セザンヌだったかな?彼の風景画をイメージして小説に描かれた。山の絵ばっかり書いてた人。
原書はある程度まで読めた
全体がグラフ雑誌みたいな感じだった。
どう良かったかというと、イタリアの風景画のような眺望のもとで、戦争にもパリの文化にも絶望した人たちのドラマが描かれているところ。
色彩とか音に溢れている…と私は楽しんでました。反戦小説とかそういったククリではない。
それだったら、レマルクの『西部戦線異状なし』だろう。
ハードボイルド形式の小説、
日本の純文学では、村上春樹の『ノルウェーの森』。
講談社文庫で50ページくらいから、ヒロインのミドリが登場する。
ここから、ストーリーが対位法になってる。
これは何回読んでも飽きない。
『古道具屋中野商店』
という作品の比喩が何故かしらハードボイルドを感じました。
深い
非常にコアな恋愛小説でもあったし
それと、エンディングが感動した。
むかし、湾岸戦争があった年に上映されていたアニメ『不思議の海のナディア』のエンディングがボクは好きで、
時代が変わってからエピローグが語られているところ。
シュタイナー
シュタイナーはフランス自然主義文学とどう向き合ったのかが興味深い。
この身もフタもない自然主義に対して、彼は今一度、カントとゲーテをテーマにリアリズムを研究した。
その結果たどり着いたのが、
唯物論にたいするアンチである。
シュタイナーはグノーシス主義にあって、物理現象を否定する。
つまり、川が下流から上流にさかのぼっていく超自然現象そのものは、唯物論であり、自分の神秘主義ではない、とする。
正義とは何か?
こういう問いかけはごまんとある。
しかし、正義とは『相対的なモノだ』というのは、申し訳ないがあまりに噴飯ものとしか言いようがない。
これにたいするエンデの応えは
『正義は存在しない、憧れである』
シュタイナーの神秘主義は、ひたすら内観する。
宮崎駿の『千と千尋の神隠し』も、唯物主義…にたいする内観の世界…がファンタジーを創造する。
『魔女の宅急便』はディテールを描きこんで、普通の(残酷なまでにキキは普通である)子供が、成長していくかを描く。
いはゆる教養小説となる。
エンディングで、『やさしさに包まれたなら』がながれる。
パン屋の店番をしている彼女が友人と会話している光景は、
キキの世界観はここからさらに変容することはない…と、さり気なくワンショットで語っている。
いはゆる、伸び代に限りがある
と、ここまで残酷に描く。
シュタイナーは、人の意識を上昇させるために、ルシファーを定義し(これが月を象徴している・水素番号H96。ルシファーは月期に取り残された)その内面のゆらぎに、
外界から働きかけるアートマンがある。
この月…は存在しなくなる。
この無…は、黒澤明の『姿三四郎』にでてくる、沼のシーンでの禅問答と同じだ。三四郎がすがりついている、木の根っこから、手を放したとき、
彼は罪を手放し生まれ変わる。
これが小さな悟りである。
この積み重ねが、次元移行につながる。
さて、無限にある4次元をすべて束ねているのが、5次元で守護天使ケルビムとなる。
スピリチュアルでは『何も思考しない』『左脳は意味がない』というが、これはちょっと間違っている。
人間は言葉で考える。
それから、もんどりうつような辛い出来事を経験しなければこの禅問答は、解けない。
とんちんかんちん一休さんも、
大いに悩んだ。
挙げ句の果に自害まで考えた。
しかし、それもできない。
ところが、ある時これを忘れてしまった。
すると、一休さん、力が抜けて、悩みを手放していた…こんな具合だ。
エーテル体は頭頂葉と側頭葉、シルヴィウス溝の少し上で、外のエーテル体を認識する。
物理学でいうところの重力波を、そこで霊体は認識する。
また、エーテル体はある一定の電子の集まりである。
ウィトゲンシュタインは認識の地平をコトバにおいているわけやね。
思考は罪であるといったのは、ニーチェ(『この人を見よ』から)
その罪をいつだって背負い込むのが人間となる。
何も悩まないと言う人は、一種、欺瞞を口にしているわけだが。
それでいいわけだが
『悩みはポイしなさい』
と言われても、ポイできないでいる。
しかしある刹那、捨てきれない悩みが
その人の魂の輝きであることを
知る。
シュタイナーのみならず、チャクラと水素番号を世に引っ張り出した、ゲオルギー・グルジェフも思考しまくっている。