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『和歌史』 なぜ千年を越えて続いたか 渡部泰明
ひとり遅れの読書みち 第40回
7世紀前半に形態を整えてから1200年以上続いた和歌の歴史。なぜこれほど長く続いたのか、持続を可能にした力はどこにあったのか。著者は、この「不思議」を考える。そして「祈り」「境界」「演技」「連動する言葉」という視点を取り上げて、和歌が命脈を続けたなぞを探る。
万葉の時代から古今、新古今を経て、武士の台頭する時代、さらには武士の支配する時代まで、代表的な歌人を選び出し、その歌をひとつひとつていねいに読みといていく。人麻呂や家持、貫之、西行、定家を紹介するだけではなく、応仁の乱、戦国時代には、頓阿や正徹、あるいは幽斎などが活躍し、江戸時代には後水尾院が優れた歌を作り出すとともに数多くの後進歌人を指導していたことを明らかにする。和歌が滅んでもよさそうな時代にも、新しい力を得て生き抜いてきたことがわかる。
1200年を300ページ余にまとめることは至難の技。本書を土台にして、読者はそれぞれ関心ある時代、興味ある人物の歌をさらに深く見つめ学ぶことができるだろう。
著者はまず、和歌を創作する(歌を詠む)人と鑑賞する(読む)人とが重なっている事実を指摘し、「読む─詠む─読む」という連鎖が、和歌の長く続くうえで「都合のよい形態」だと説明する。また和歌が教育と結びつき「活力」を得たことにも注目する。
和歌を作るということは「実践学習」であり、そのため歌学が発達し、関連する辞典や歌集、注釈書などの書物も刊行された。他の分野の教育にも和歌が活用されてきている。
そこで著者は4つの視点を挙げる。
第1は、祈り。そもそも和歌は作者の「現在の気持ち」とともに「理想」を表現するもの。「希望や願望」さらに「回想や懐古」だ。寂しさや悲しさ、恨みも、「何か理想的な状況が奪われている」から痛感するもの。「理想状態を切望する」、それを「祈り」と表現する。例えば、万葉の歌人、額田王の有名な次の歌。
三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや
(三輪山をそんなに隠すのか。せめて雲だけでも思いやりがあってほしい。隠してよいものだろうか)
第2は、境界だ。和歌が理想への思いを表現するものとすると、作者は「現実でもなく理想でもない」「中途半端な状態」に立っていることになる。つまり「境界」に立っている。場所の境だけではなく、夢と現実、死と生、聖と俗など境界を主題にした歌を詠む。和泉式部は死と生の境を越えようとの歌を幾つも詠んでいる。例えば、次の歌。
冥(くら)きより冥き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月
(煩悩の闇から闇へと迷い込んでしまいそうだ。はるかに遠くまで照らしてほしい、山の月よ)
生の闇から死後の闇へ、出でぬ月から空の月へ「境界を越える表象」が詰まっている。
第3は、演技。和歌の中で、見る、聞く、触れる、思うなどという作者の行為は、「選び抜かれ」「思いが託された」もので、それを「演技的な行為」と見る。「虚実ないまぜになった、ウソと本当の間をただようような」演技の感覚。定家などの歌によく表れているという。
第4は、連動する言葉。枕詞、序詞、見立て、縁語、本歌とりといった和歌のレトリックで、通常はつながらないはずの語と語を結びつける。「飽き」と「秋」、「夜」と「寄る」など、貫之の歌には顕著だろう。
霞たち木の芽もはるの雪ふれば 花なき里も花ぞ散りける
(霞が立ち木の芽も張る。そんな春なのに雪が降ると、花のない里にも花が咲いている)
「張る」は「春」であり、春の雪を花に見立てている。言葉が「連動して相互に網の目のように結び合い、秩序だった体系的な世界を形成」する。
和歌を読み、詠むという実践において、「新古を越えた、永遠なる価値につながる実感」を育てることができる─と著者はまとめている。
(メモ)
和歌史 なぜ千年を越えて続いたか
渡部泰明
発行 KADOKAWA
令和2年10月30日初版発行