『城下の人』 石光真清
ひとり遅れの読書みち 第16号
明治元年に熊本で生まれた石光真清の生涯を描いた手記である。熊本細川藩の産物方頭取の息子として誕生した石光は、維新直後の政情不安の中、熊本で起きた神風連の乱、西南戦争を子供時代に過ごし、長ずるに及んで陸軍幼年学校を経て士官となって、近衛師団に所属、日清戦争に従軍する。戦後の三国干渉に衝撃を受け、ロシア研究の必要性を自覚し、ついには諜報活動に生涯を捧げることになる。
石光は昭和17年に没する。遺稿を長子の真人が整理して発表した。『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』の4部作からなり、『城下の人』では、ロシアに留学するまでを描く。作品は毎日出版文化賞を受けた。
明治の時代のさまざまな事件に直接あるいは間接にかかわってきただけに、ひとつひとつの出来事が臨場感たっぷりに描写されており、歴史のドラマを追体験しているような思いになる。ひとりの明治人の生きざまに触れる出色のノンフィクションと言えよう。
維新まもない時期、石光は稚児髷に朱鞘の刀をさして飛び回っていた。熊本では明治新政府への不満はくすぶっている。とりわけ「散髪廃刀」への反発は根強く、神風連の勢力も強まっていた。日本古来の伝統や魂を重視すべきとして武装蜂起に出たが、一夜にして鎮圧された。石光少年は5歳。神風連の加屋副将と出会ってその人柄に感銘を受けており、事件は他人事ではなかった。
乱鎮圧後まもなく、今度は鹿児島から反乱の動きが伝わる。薩摩の旧藩士たちが熊本城を攻めに来るというのだ。石光家の住まいの地区にも藩士たちが押し寄せる。石光はそうした人と出会って話をしたり、山に登って戦況を見守ったりしていた。
一方、父は政府側の鎮台司令官の谷干城少将や樺山資紀中佐、児玉源太郎少佐らを案内してひそかに地勢などの情報を伝えていたという。
こうした時代の波の動きのなかで、石光は軍人になることを希望して、陸軍幼年学校へ入学、さらに士官学校を卒業して、近衛師団に配属される。そこでの興味深いエピソードのひとつは、大津事件の時のことだろう。
明治24年5月訪日中のロシア皇太子が襲撃を受けて負傷した事件だ。真夜中の午前1時非常ラッパが鳴り渡った。直ちに中隊長の部屋に駆けつける。すると「中隊長は直立不動の姿勢で顔面をひきつらせて待っていた」。
ロシア皇太子の見舞いに天皇陛下が京都へ行幸する。それにお供するので正装して午前3時半までに集合するとの指令だった。「腰をぬかさんばかりに驚いた」が、時間通り揃って天皇の列車につき従った。極めて緊張して、一睡もできなかったという。
ロシア側が予定を変更して急きょ皇太子の帰国を通告してきた。神戸港に停泊中の艦艇に引き揚げるという。天皇が送別の宴を設けたいと申し出たが、これを断り、天皇に艦艇に来てもらいたいと招待してきた。この提案を受けるかいなか、閣議は沸騰した。天皇が乗り込むと万が一そのまま連れ去られるようなことがあるのではとの懸念からだ。招待を断るべきとの奏上があったが、天皇はそれを退けて出かけた。西郷内相ほか幹部は心痛の面持ちで帰りを待ち、無事天皇が戻ってくると、みな「感極まって声をあげて泣き出した」という。当時の日露の力の差は余りにも大きく、緊迫した様子が伝わってくる。
石光はその後日清戦争に従軍、台湾での守備にも加わった。
日清戦争勝利ののち平和条約で獲得した遼東半島の放棄を強いる三国干渉が起こる。政府は臥薪嘗胆を説いたが、多くの国民の悲憤はおさまらなかった。石光は近い将来ロシアとの戦いになると見通し、ロシア研究を目指す。軍に働きかけて了解を得て、ロシアのウラジオストクへと留学に旅立っていった。諜報活動の始まりである。