『西アジア遊記』 宮崎市定
ひとり遅れの読書みち 第57号
中国史の大家、宮崎市定が若き日、パリ留学中の昭和12年(1937年)、ルーマニアの首都ブカレストからトルコの古都イスタンブールに入り、約3ヵ月間、イラク、シリア、レバノン、パレスチナ、エジプトの各地を訪れ、アレキサンドリアから地中海を渡ってギリシャ、イタリアを経てパリに戻った時の旅行記だ。
「現在を知る者にして始めて古代を知ることが出来、古代を知った上にして始めて現在を知ることが出来る」という歴史学者の信念をもとに、単独で旅をして町や村、遺跡を巡った。観察は鋭く、その記録は具体的で、人々との交流も興味深い。臨場感あふれている。この地域はアジアとヨーロッパの境界線となる地域であり、今も争いが続いている。第1次と第2次の世界大戦の間の時期に訪れ、各地の特色や「風俗の機微」を歴史家の目で描いており、一読の価値がある。
ルーマニアで開かれた万国人類学及び先史考古学大会に出席した著者は、その後黒海を渡ってトルコの古都イスタンブールに向かった。さらに陸路小アジアのアンカラを経て、シリアのアレッポに入り、砂漠の中をイラクのモスル、バスラを訪れ、シリアのダマスカスに戻ってパレスチナのエルサレム、陸路エジプトのカイロに入り、ルクソールなどの古跡を訪れた。
トルコでは、独立を果たして間もない時だけに、新興国生みの親ケマル・アタチュルクの統治の勢いを感じたことが伝わってくる。第1次大戦でドイツの与国になった国々では、敗戦の屈辱を味わっていた。唯一トルコが新しく一歩を踏み出した。ソフィア寺院や青モスクを訪れ、ドーム建築の美しさや明るさに感心している。博物館では中国からの陶器が数多く陳列されていることに注目。明時代のものだろうという。
イスタンブールからは汽車でアンカラへ行く。古城跡では巨岩の上に腰を下ろして、モンゴル軍とトルコ軍が戦った500年前の昔に思いを馳せる。シリアへの途上にカイゼリーで泊まる。「第1等のホテル」と言われた所に行くと、寝台が5つ並べられた部屋をあてがわれた。先客はもう寝ついていて、ひっきりなしにゴホンゴホンとやっていて不気味だったとのこと。
アレッポの町は西暦前20世紀から史上に著され、アジア、ヨーロッパ、アフリカの三大勢力の交錯する場所。幾つかの文明の跡が見られたという。中でも著者の目を引いたのは、長さ9センチほどの青銅の偶像だ。博物館に展示されていたものだが、どう見ても中国の観音像だ。13世紀モンゴル人がアレッポを占領した当時持ち込まれたのだろうという。
著者の旅は足で歩く旅であり、砂漠についてもその印象はおもしろい。著者によると、砂漠と言ってもそれぞれ「個性」がある。アレッポからモスルまでの間は「火山の麓」のような所であり、汽車の中にいても微塵の灰を浴びた。モスルからバグダッドまでは「谷底」で、火鉢の中に自動車を走らすようだった。バグダッドからダマスカスまでは、堅く乾いた「粘土の塊」の上を通るようだったと印象を残している。
また著者は、歴史上にみるシリアの重要性を感じたと強調する。メソポタミアとエジプトの2大中心に挟まれた地域だが、実際にその地に行ってみると、メソポタミアは「泥で造った文化」であり「田舎文化」。エジプトは石材をふんだんに使った「豪奢な文化」だが「神様と王者の占有物」で庶民がほとんど登場しない。一方のシリアでは至るところに古代都市の遺跡が存在し今も盛んに商工業が行われている。東西貿易の大幹線が通過したのだろうとの感触を持ったと論じている。
なお、本書はもともと1944年に「菩薩蛮記(むするまんき)」として出版(生活社)されたもの。76年「アジア史論」(朝日新聞社)の中に収録され、また独立して中公文庫の一冊として86年に出版された。