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『物語エルサレムの歴史』旧約聖書以前からパレスチナ和平まで 笈川博一
ひとり遅れの読書みち 第61号
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三大宗教の聖地であるエルサレム。イスラエルとパレスチナ紛争の大きな要因となっている。著者の笈川博一は、そのエルサレムに1970年留学のために渡り、以来25年間暮らし留学先のヘブライ大学でも教鞭をとってきた。また時事通信の通信員も務めた。現地で長く住んできただけに、エピソードは豊富だ。
数千年にわたる歴史の中で、支配者は目まぐるしく変わり、争いは今も止まないエルサレム。ダビデら古代の王の事績からイスラム教徒の統治、十字軍、2回の世界大戦、イスラエル建国、戦争と和平交渉、そして現状を描いた。10年程前の出版ながら、一読の価値がある。
エルサレムは標高約800メートルの岩だらけの丘陵地に広がり、古代の重要な街道から外れ、水の供給にも問題を抱えている。著者によると、「地理的にも経済的にも不利な立地条件」であり、一国家の首都としての地位を占めたのは短期間。それも紀元前1000年紀や紀元11世紀の十字軍という「地方的な小国家時代」に限られ、その時期も長くはない。歴史上の大部分の時間、余り重要ではない「一地方都市」に過ぎなかった。「宗教」ゆえに、21世紀でも無視できない町になっているということだろう。
第2次大戦後イスラエル建国からの記述は簡潔でわかりやす。まとめてみよう。国際連合は1947年11月29日パレスチナ分割決議を採択して、ユダヤ国家とアラブ国家を作ることを決めた。エルサレムは国連が統治する国際都市にする。英国の委任統治終了の前日48年5月14日イスラエルが独立を宣言した。直後アラブ5ヵ国(エジプト、シリア、ヨルダン、イラク、レバノン)との戦いが始まる。
49年7月休戦になったとき、エルサレムの80%がイスラエル、20%がヨルダンのものになった。パレスチナ全体の55%はイスラエルが占領した。50年ヨルダンは東エルサレムを含むヨルダン川西岸を併合する。パレスチナ側はヨルダン川西岸(ヨルダン併合)とガザ(エジプトの軍事管理地区)と「飛び地」になり、最初から「別の道」を歩まざるを得なかった。パレスチナ難民が大量に発生する。国連によると、当初75万人だったが、今では約500万人へと増えている。
一方、イスラエルは50年までに約60万人の移民を受け入れた。2年で人口が2倍になっている。50年代半ばまでには北アフリカを中心に17万人、60年代に18万人。さらにソ連崩壊後の90年代にはロシアや東欧中心に100万人近くが流れ込んでいる。エチオピアからも6万人。人口は720万人(2009年)を超えた。70年には300万人だったので、40年間に2.5倍以上増えたこと(建国以来では12倍)になる。
第3次中東戦争(6日間戦争)が67年に始まった。イスラエルはシナイ半島をエジプトから奪い、シリア軍をゴラン高原から敗退させた。またヨルダン軍を西岸地区から押し返し、旧エルサレムを占領した。エルサレムを広域化して住宅地を次々と造成していく。
73年には第4次中東戦争が勃発する。軍事的にはイスラエルの勝利だったが、イスラエルの「不敗伝説」は破られ、国内では政府や軍への批判が強まる。万年野党だったリクード党が、独立以来初めて政権を掌握する。ベギンの登場だ。強硬な右派ながら、エジプトとの和平への道を切り開く。エジプトのサダト大統領が77年イスラエル入りし79年に和平条約を結んだ。
しかしサダトは81年暗殺される。イスラエルは他のアラブの国との和平の道を探るものの、入植地を増やし続け激しい反発を食らった。 87年12月ガザでは第1次インティファーダ(反イスラエル運動)が始まり、西岸にも広がる。
冷戦構造が崩壊して、中東和平を目指す動きが目立つ。91年マドリッドで和平会議が開かれ、93年にはオスロ合意に至った。ノルウェー外務省の働きかけで、イスラエルとPLOとの直接交渉が始まっていた。イスラエルにラビン政権(労働党)が誕生したことが大きかった。リクードはパレスチナ人を武力で押さえつけようとの方針だったが、これに批判的な勢力が強まっていた。PLO側の困窮も一要因だった。イラクのクウェート侵攻の際にイラク側についたことから、資金源のクウェートやサウジアラビアを怒らせ、資金の流入がストップしていた。
94年PLOのアラファト議長は、オスロ合意に基づいてガザに入る。パレスチナ暫定自治政府が誕生した。しかし長年外国で亡命活動をしてきたアラファトや側近による政権は、国造りのプログラムを欠き、腐敗も目立ていた。インティファーダの中で育ってきた新世代と対立、イスラム政治運動ハマスとの軋轢は強まった。PLOはガザから追放され、パレスチナは事実上二つに分かれる。ハマスのガザとPLOの西岸だ。
さらに和平を推進してきたラビンが暗殺される事態。95年「オスロⅡ」と呼ばれる新しい合意が結ばれ、パレスチナ国家の樹立をゴールとする「平和へのロードマップ」ができる見通しもあった。しかしイスラエルの野党リクードは反対し、政権に復活。第2次インティファーダの動きは活発になった。今も「暴力の拡大再生産」が続くことになる。
武力以外の方法でエルサレムに和平をもたらしたのは、13世紀のフリードリヒ2世だけだという著者の言葉が印象的だ。フリードリヒはローマ教皇から破門を受けたものの、交渉によって和平をもたらしていた。
(メモ)
物語エルサレムの歴史
旧約聖書以前からパレスチナ和平まで
笈川博一
中公新書
2010年7月25日発行