父の死に顔

父の死に顔が、浮かんできた。
ずいぶん長い間思い出さなかった。


◯◯ちゃん、起きなさい────静かなやさしい声。呼ばれてわたしは目を覚ました。母方の叔母がいた。喪服。44年前の12歳の12月の朝。ほかにも喪服の人たちがいて静かだけど騒々しいような、緊張した空気が支配していた。何がどうなっているかをたずねたが、叔母はそれには答えなかった。
母方のきょうだいはみな、親戚の子どもたちをかわいがった。とりわけ子どもたちをかわいがって甘やかしてくれた独身の叔母の一人は、よくきょうだいとけんかしていた。おこったら当分は口を利かないことが当たり前。ところが、子どもにたいしては自制が効いていた。わたしがそれを目の当たりにしたのは一度だけ。わたしの振るまいに怒った叔母が、「わたしはおこってる」と、自分を主語にして言ったあと、すぐに気持ちを切り替えようと努力していた。それから一緒におやつを食べたかもしれない。叔母は不機嫌を持続させてわたしを罰したりはしなかった。
あのときの体験が自分にとって決定的に重要だったと気づいたのは「意識的に生きるんだ」と決めたあとの28歳のとき。
この叔母に抱えられるようにしてわたしは棺がある殺風景な部屋にいた。お父さんの顔を見てあげなさいと、たぶん起こしてくれた叔母が促していた。母と弟は記憶の絵の中にいない。泣きながらわたしを支えてくれている叔母にしがみついているわたし、見ようとしないわたししかわからない。
恐くて恐くてたまらなかった。魂が旅だったあとの人を見たことがないからじゃない。
父の死の経緯は、尋常ではないということだけはわかったいた。当時のわたしは具体的なことは知らない。父が惨いやり方で自分を絶命させたとは知らなかった。いつ知ったか? もう相当いい年ではあったろう。でも、忘れた。もう一度それを知ったのはそんなに古いことじゃない。茶色い染みだらけの汚ならしいぼろぼろの死亡診断書を読んだ。今度は忘れない。次第に思い出しもした、ああ、いつだったか、あの汚ならしい紙を読んだことがあった、って。
父はわかりやすい暴力の人だった。こころの皮膚が無い、赤剥けだから、些細なことで酷い痛みに襲われて暴力で対抗した。
わたしはそれを嫌というほど見せられた。弟がすうすう寝息をたてているときも全身が耳になって聞いていた。身が焼かれる思いだった。
弟を激しく殴打したとき、暴走は止まらない、弟を殺してしまうと思った。止めなければならない!
高速で考える頭──そのばあい自分が殺される可能性は十分ある。こころが即座に応答──了解。危機に瀕して頭とこころが素晴らしい連携を果たした。
やめなよ!死んじゃう!
叫んだわたしに父の首が向いた。飛び出しそうな目玉に怒りが燃え上がった、もっと気違いの目。食い縛った歯の間から憤怒の息が漏れていた。殺される、殺される──抗う力はないから、殺されるまで殴られるしかない──踏ん張る脚が震えただろう。
怒り、軽蔑、悲しみ──激情がぐちゃぐちゃに混ざった眼差し、犠牲者の眼差しをわたしに投げつけて、父が背を向けた。あのとき父は「死ね!」と呪ったのではないだろうか。「おれの痛みをわからないおまえ、死ね!」と。
ごくごく幼いころから暴力沙汰を目撃してきた。父はわかりやすい恐怖の対象だった。だから、あんな人が死んだら、きっと人間とは見えない恐ろしい、醜いでは済まない、見てはいけない顔になってるに違いないと思った。

結局は見たんだ。
そんな顔を、わたしはかつて一度も見たことはなかった。うつくしい顔というものがあるとしたらそれだった。父は美男ではない──礼儀を知らない隣のおばさんが「お父さんに似なくてよかったね!」と笑った──そうではなくて、こんな人の顔というものがあるのか?という驚き。
これがお父さんの本当の顔だったのか?という驚き。

考えてみれば、もう脱け殻だから、人の顔ではないか──生きている人のうつくしい顔をわたしはたくさん知っている。それとは異質なうつくしい顔の、魂が旅だったあとの脱け殻の顔。






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