noteを書く理由:にぐちの場合
物心ついた時には文字を書くのが好きだった。好きと言えば聞こえがいいが、苦にならなかった、という意味も含んでいる。国語の課題で絵にあった物語を書いてみましょう、とか、何か行事があるたびに作文を書きましょう、とか。皆さんも身に覚えがないだろうか。特に小学校はとんでもない数を書かされる。あれが嫌いだったという人もいるだろう。私はほかの宿題よりは作文のほうがよかった。作文には正解がないから。何を書いてもいいから楽だった。その一方で、正解はないけど「いい作文」「いい文章」があることを知っていた。そして、こんなことを書いたら先生は喜ぶだろう、とか、親は褒めてくれるだろうというのもわかっていた。どうなんだろう、こういう子供は…と今は思う。最終的には”コンクールで賞を取るには”こういう題材に焦点を当てて、こういう切り口で書けばいいんでしょ?とそんなの分かりきってますよ、という気持ちで文章を書いていた。(実際そういうふうに書いた作文は入賞している。これも困ったものだ。)文章を書いて認められるのはうれしかったし、自分の文章をいろんな人に読んでもらえる、つまり自分のことを知ってもらえるのは嬉しいことだった。
そんな子供も成長すれば作文を書く機会はなくなり、レポートや報告書、論文など「意味のある文章」を書かなければならなくなった。こうした文章には情景描写や言い回しのテクニック、豊かなボキャブラリーは必要なかった。否、正しく言えば、方向性の違うそれらのテクニックが必要になっていた。もちろんその方面の技術は身に着けてこなかったのだから、なにもない。人一倍文章を書いてきたと思っていた一人の人間は自信を無くすことになる。
絵も歌もそこまで上手くない。演劇は興味があったけど手を出さないでしまった。しゃべりが面白いかと言われれば、才はないな、という感じ。運動神経も格別いいとは言えない。さて、私はどうやって自分自身を表現するのだろう。何を通じて私は自分がここにいると世界に伝えればいいのだろう。どうか私を見つけてほしい。ここに生きていることを認めてほしい。激しい承認欲求と自己顕示欲が渦巻いている。普通なら、というか一般的には一定の時間で落ち着くものなのだろうが、未だに燻り続けている。こうした中で、私は文字を書くことで存在を示すことを選んだ。文字を書くことはできるから、なんだかんだ好きだから、私は文字を書く。綴る文章には、大層な意味も意義もない。でも伝えたいことはあるから、それを表現するために文字を書いている。
なんかいい感じに書いたが、結局は自分が書きたいことを書いているだけである。そしてそれを読んでくれる人、気に入ってくれる人に会いたいから発信している。書いたら伝わったのかはやはり気になる。noteを選んだのは、つながる力が強いと思ったからだ。Twitterで見かけなかったらnoteも知らなかっただろうし、noteを知らなかったらここまで日常的に文章を投稿し続けることもなかった。
結局は、承認欲求と自己顕示欲を満たすためにnoteを書いている。私はここにいるとこれからも言い続けるのだろう。だからこそ、読んでくれるすべての皆様、反応をくれるすべての皆様に心からの感謝を。これからも「にぐち」をどうかよろしく。