- 7days book cover challenge, DAY7 -
毎日やるからチャレンジなのだとわかりつつも、せっかくやるならブックカバーを載せるだけでなくちゃんと本を紹介したいという思いから毎日書くことができず、日々の忙しさもありDAY6からだいぶ時間が空いてしまった、、、。
このブックカバーチャレンジ企画の目的は「読書文化の普及に貢献」ということだから、前置きとして書いたDAY0で「読書文化存続のために、今、本屋さんの通販で買える本をレコメンドしよう」と宣言した。
「思わず読んでみたくなるような本」はなにかと、自分の本棚とにらめっこをしながら、Day1はレコード、Day2は考現学、Day3は妖怪、Day4は植物、Day5は詩、Day6は絵はがき、といった風に「知的好奇心」をくすぐられるような本を選んできた。
ようやくたどり着いたDay7では、自然科学の入り口となりそうな本を紹介したい。
『ドミトリーともきんす』 高野文子 / 中央公論新社
あとがきで、高野先生はこう書いている。テレビや本などのものを伝える仕事の伝え方にはふたつある。架空のお話を楽しんでもらうための働きと、実用の助けとなるような働き。
さて、わたしが仕事にしてきた、この漫画。
絵と字でできているこの漫画。
架空の方面では良く働いてくれます。
もういっぽうのほうは、どうでしょう。
実用に向く、そういう仕事はできないのかな。
つまり「漫画」という体裁をとっていながら、著者自身が「実用に向く」本をつくったと言っているのだ。
実用に向く漫画とは、珍しい感じがする。
架空の学生寮「ともきんす」には、実在した4名の科学者が住んでいる。朝永振一郎、牧野富太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹。もちろん、この4人が一緒に住んでいたという事実はない。(朝永氏と湯川氏は友人だった。)
「ともきんす」の寮母として4人と対話するとも子さんは、高野先生の分身のように思えるが、高野先生自身はこれまで自然科学にあまり親しんでこなかったようで、編集者さんが持っていた自然科学の本を借りてみたことがきっかけだったそう。
とあるインタビューで、前作の『黄色い本』(『チボー家の人々』を愛読する少女が題材)を描いたあとの自身の状態を、こう評していた。
ともかく、血中文学濃度が上がりすぎちゃった。
この体を、どうにかしないとやばいという感じがありました。
文学濃度のあがりきった体をどうにかするための一つの方法として、自然科学の本を借りてみたのだろう。その感想として「科学の本ってヒンヤリして気持ちがいい」とも述べられている。
確かに高野先生が、科学者たちを題材として漫画を描くことを意外に思ったが、もしかしたら高野先生のフィルターを通せば自分も、今生では接近を諦めていた分野への橋がかかるかもしれない、という期待感があった。
するとクライマックスの「詩の朗読」という章で引用される湯川秀樹の『詩と科学 - 子どもたちのために -』という文章が、まさにその期待感を埋めてくれるようなものだった。
「詩と科学は遠いようで近い」とはじまり、「詩」と「科学」それぞれの特徴を挙げていく。双方が近い理由として挙げられるのは「どちらも自然をみること聞くことからはじまる。」ということだ。例えば花の美しさや香しさを言葉で表現しようとするのは詩。形状などを調べてその存在の不思議さを探求しようとするのが科学。といった具合に。
しかし湯川博士はこう続ける、いつしか科学は進歩して、たくさんの専門にわかれたことから詩を忘れてしまった。「科学者たちはまた自然の詩に気付くことができるだろうか?」という問いかけからの、結びが感動的だ。
(詩と科学は)どちらの道でもずっと先の方までたどって行きさえすれば、だんだんちかよってくるのではなかろうか。
そればかりではない。2つの道はときどき思いがけなく交差することさえあるのである。
詩と科学の出発点が同じであるとは考えたこともなかったが、言われてみれば確かにそう。この漫画で描かれている4人の(キャラクターとしての)科学者たちが、「自然を見ること聞くこと」を存分にやっている。科学者の初期衝動みたいなものが伝わってくる。それらは科学者たちの言葉の中に克明に刻まれているのだ。
結局まんまと、読後まもなく湯川秀樹のエッセイ集を買いにいってしまった。やはり、この本は実用に向く漫画なのだ。
今回この紹介文を書くにあたって読み直したあとで、今度は中谷宇吉郎の文章が読みたくなってしまった。
町の本屋がまた開いたら買いに行こうと思う。
では、良い読書を!
----勝手にCM----
僕のチャレンジの目標は、薦めた本を誰かが本屋さんで買ってくれること。
というわけで、この本が買えるページを紹介します。