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「本屋 Title」さんのこと

JR中央線の荻窪駅からしばらく歩いたところに、「本屋 Title」さんという書店がある。

このお店、かつてリブロの池袋本店マネージャーも務めた辻山さんという方が2016年1月に開いた書店で、特に本好きの皆さんから熱い支持を受けている。小さいながらも(いや、むしろ小さいからこそ)辻山さんの確たる信念が棚作りなどに反映されていて、とても居心地が良い。

先日、このお店を友人におすすめしたところ、早速今日訪れたとの報告をいただいた。なんだか、とても嬉しい気持ちになる。

個人的にも思い入れが深く、TitleさんのTwitterアカウントを介してフォローさせていただいた方も多い。皆さん本を愛してやまないのはもちろんのこと、アカウントを通して伝わってくるお人柄も魅力的。私にとっては一種のサロン的役割を果たしてもいる。
そんなわけで、友人からの報告をありがたく頂戴しながら、私自身の体験についても思い返していた。

「本屋 Title」さんが開店したのは2016年の1月10日。どういうご縁だったか、Twitterを通じてその日、その場所にオープンすることを知っていて、今か今かと待ち望んでいた。
実はこの度、当時ちょろっとつけていた日記じみたものが出てきた。それによると私はどうやら開店の20日後、1月30日に初めてお店を訪れたらしい。

その時、「1冊だけ本を買って帰ろう」と心に決めて、店内をくまなく見て回ったことを覚えている。そうして長い時間かけて選んだのが鷲田清一著『<ひと>の現象学』(2013年、筑摩書房)。

鷲田清一氏という慣れ親しんだ著者と、ポップな装丁に惹かれたのだ。そしてその後、正直なところ「積ん読」状態になっていたのだが、今日、およそ2年半ぶりに手に取ってみた。そう、これからするのは「読んでいる途中の本の紹介」。

最近はなんだか「あとがき」から本を読んでしまうことが多い。「あとがき」によれば本書は、筑摩書房のWebサイトに『可逆的?』と題して掲載された連載が元になっているようだ。その連載の意図を著者は以下のように記している。

[…]『可逆的?』のモチーフは、あるものを見たときにそれとは反対のものを透かし見てしまうというわたしの思考の、いってみれば癖のようなものを、方法にまで鍛え上げたいというところにあった。フランス語でいう"duplicité"(二重になった襞)の癖を、原義にある「二枚舌」とか「二心」ではなく、パスカルのいうような<両重性>の思考として鍛え上げたかったのである。だからその連載のタイトルも、パスカルのそれに連なるメルロ=ポンティの<両義性>(ambiguïté)と<可逆性>(réversibilité)の思考になぞらえて、「可逆的(リヴァーシブル)?」としたのだった。(p.252)

前掲の連載に大幅に加筆修正をした本書においても、この「反対のものを透かし見てしまう癖」がおおもとにあることは変わらない。

第1章は「顔 存在の先触れ」。実のところ私はまだこの章までしか読んでいないのだが、ここではモンテーニュ、レヴィナス、カッシーラー、ジャコメッティなどを足掛かりにして、<顔>について記述していく。何かしらの結論めいたことが語られるわけではなく、読み進めていくうちに、普段何気なく使っている「顔」と、ここでの<顔>は違うんだな、ということが朧気ながらでも分かってくる仕組みになっている。ちなみに、第1章はこのような形で締めくくられる。

[…]レヴィナスが、あるいは[…]ジャコメッティが、終生<顔>にこだわりつづけたのは、<顔>を包囲しにやってくるあらゆる意味を剥ぎとり、そして、どのような取り込みにも抵抗する<顔>の、脆く儚く壊れやすい、つねに<死>の可能性に引き渡されたその裸形の現われを、<ひと>という存在の原始として救いだすこと、そこにしか現在における「書くこと」の、そして「描くこと」の意味はないと信じていたからなのではなかろうか。(p.45)

私がレヴィナスによる<顔>についての記述に初めて出会ったのは大学2年生の頃。最終的には「哲学研究」に複雑な思いを抱きつつも、卒業論文の対象にレヴィナスを選んだ身としては、思い出深くもある。専ら今は「哲学して(≒考えて)生きる」ことが関心事なのだが。

あぁ、気づけばTitleさんのことからだいぶ脱線してしまった。
このお店、小ぢんまりとしたギャラリーやカフェもあって豊かな時間を過ごせるので、お近くにお住まいの方はぜひ一度訪れてみていただきたい。私も近々、再訪したいなぁ。

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