映画『みんなの学校』を観て
2024年の年末に、2014年に公開された大阪市立大空小学校を舞台としたドキュメンタリー映画「みんなの学校」を観てきました。
ちょうど同じタイミングで「小学校〜それは小さな社会〜」という映画も公開され、そちらも年始に見てきたのですが、その感想は次回書きたいと思います。
大空小学校とは
公式ページにも書かれていますが、大空小学校は他の公立小学校との大きな違いは、いわゆる特別支援が必要とされるお子さんの割合が多いこと。特別にそういったお子さんが通うための学校ではなく、ごくごく普通の公立小学校なのですが、うわさや評判を聞き、支援を必要されるお子さんを通わせたくて引越されるご家庭が多いとお聞きしています。
そして、その小学校を作り上げた初代校長である木村泰子さんは、2015年に退職し、いまは全国を回って講演したりアドバイザーとして活動をされています。私もよくオンラインなどで話を聞かせていただいておりますが、やさしさと思いやりを込めた鋭い切り口のコメントにハッとさせられています。
木村泰子さんの強い意志
映画を観て私が特に強く印象に残ったのは、木村泰子さんが示した2つの大切な考え方です。
「学校をすべての子どもたちの学習権を保障する場にすること」
「学校はみんなでつくるもの」
これらは、学校の役割を考えれば当然といえば当然のことかもしれません。しかし、現実の多くの学校では、これが十分に実現されているとは言い難いのが現状です。
学校の本来の目的は、すべての子どもたちに教育を提供することです。特定の子どもだけに教育を与え、それ以外の子どもを排除するようなことは決してあってはなりません。また、学校は社会に出るための練習の場でもあり、子どもたちがたくさんのチャレンジをし、たくさんの失敗を経験できる場であるべきです。しかし、現実には多くの学校が大人が決めたルール(校則)に縛られた生活を強いています。このような環境は、学校本来の目的に逆行しているといえるでしょう。
苫野一徳さんの言葉を借りれば、これは「学校や先生、親が悪い」という問題ではありません。むしろ、現在の学校システムそのものに問題があるのです。このシステムを変えない限り、学校が本来の役割を果たす場にはなり得ません。
映画には、さまざまな発達特性や知的障がいを持つ子どもたちが登場します。クラスメイトはクラスメイトとして協力したり助け合ったりする姿が見られ、また必要な個別の対応を、担任だけではなく学校全体の先生たちが連携してカバーし、さらには地域の方々も巻き込んで居場所をつくっていくシーンがありました。「これが地域で子どもを育てるということなのか」と感動し、そうした場面が出てくるたびに自然と涙がこぼれました。
地域全体で子どもたちを支えるという考え方は、すべての子どもたちが学びの場に参加する「インクルーシブな教育」の理想を体現していると感じます。
また、木村泰子さんは校長という立場でありながら、すべての子どもたちの状況や特性を理解し、時に厳しく、時に優しく接していました。その姿勢には、子どもを一人の人間として尊重する教育者としての矜持を強く感じました。もちろん、時には「子どもをこんな風に扱っていいの?」「教員にこういうことを言っていいの?」と戸惑う場面もありましたが、約10年前の当時はそれが当たり前だったのかもしれません。それでも、木村さんの子どもたちへの接し方からは、子どもたちを深く理解し、その成長を支える熱意が伝わってきました。
インクルーシブ教育という言葉はいらない
映画の上映後、木村泰子さんによる講演が行われました。映画に登場した子どもたちのその後や、当時の想いについて語られる中で、特に印象的だったのは木村さんご自身の言葉です。
木村さんは校長時代、「インクルーシブ教育」という言葉を一度も使ったことがなかったそうです。その理由として、「みんなと一緒に学ぶのが当たり前なんだから、そんな言葉を使う必要はない」とおっしゃっていました。この言葉には、教育の本質に対する深い洞察が込められていると感じ、まさに「なるほど!」と感銘を受ける内容でした。
いまの日本社会の多くは、マジョリティ(例えば健常者)にマイノリティ(例えば障がい者)が合わせていく、というのが当たり前になっている場が多いといえます。
学校についても例外ではなく、今の教育システムは『この教え方・この教材ならだいたいの子どもたちをカバーできるだろう』というマジョリティに合わせたやり方でやっているため、特性があってそのやり方ではなじめない・学べない子は弾き出されてしまいます。そして弾き出された子は、特別支援という形でみんなとは別に「分離教育」を受け、マジョリティのやり方になじめそうだったら戻される、という仕組みです。
このやり方は、日本では当たり前のようにされていますが、実は毎年国連から勧告を受けています。
ここではその内容の是非について述べませんが、分離している時点でインクルーシブ(包括)なのか、という疑問はあります。
五体不満足の乙武洋匡さんもいつかの講演会で、インクルーシブ社会を実現していくためにはどうしたらいいかという質問に対し、「障がい者がいる社会が当たり前としてみんなが「慣れる」ことが重要」と述べていました。障がいの有無・国籍・性差などの多様性が、みんなの中で当たり前として「慣れ」ていたら、確かにインクルーシブという言葉は不要ですね。
木村泰子さんが指摘した「みんなと一緒に学ぶのが当たり前」という考え方は、このような現状に一石を投じるものです。分離された教育ではなく、最初からすべての子どもたちが同じ場で学べる環境をつくることこそが、インクルーシブ教育の本質ではないでしょうか。
インクルーシブ教育を特別な概念として扱うのではなく、「当たり前」として捉える社会を目指すことが、これからの教育の大きな課題だと改めて感じました。
安心・安全な居場所をつくるのは大人の責任
映画の中で描かれていた男の子は、小学4年生のときに大空小学校へ転校してきました。それまでの学校では、発達特性が原因でいじめを受け、まったく登校できなかったそうです。そんな中、お母さんが大空小学校の話を知り、「この学校ならうちの子が通えるのでは」という切実な願いを胸に、引っ越しを決断されたとのことです。
先述のとおり、現在の学校は、多くの場合マジョリティのやり方にマイノリティな立場の子どもたちが合わせる構造になっています。このシステムに適応できない子どもたちは、システムから弾かれるような形で不登校になるケースが少なくありません。
私自身、長男が不登校になった経験があるので、その辛さがよくわかります。不登校は子ども本人だけでなく、親にとっても大きな負担です。どうやってこの子を学校に通わせられるのか、将来社会で生活していけるのか、といった不安が尽きませんでした。
学校を、すべての子どもにとって「安心・安全な場」にすることは、大人の重要な責任です。しかし、この場をつくる過程には、大人だけでなく子どもたち自身も参加することが大切です。子どもたちが自ら「学校をつくる」当事者として関わることで、子どもたちが大人になったとき、社会に積極的に関わる力を育てる重要なステップにつながります。
幼保小をつなぐ「安心・安全な場」の実現を
保育の現場では、近年「子ども主体の保育」を進める取り組みが広がっています。この子ども主体の保育も、園が子どもたちにとって安心・安全な場であることが前提です。園でこの土台を築くことが、小学校以降の学びにおいても重要な基盤となります。
国が進める「幼保小架け橋プログラム」は、保育園・幼稚園から小学校へ、子どもたちがスムーズに移行できるよう支援する取り組みです。特に重要なのは、園も学校も子どもにとって安心・安全な場であることを徹底することです。
すべての子どもが安心して過ごせる環境づくりは、保育・教育に関わる私たちの共通の目標です。その目標を胸に、日々の実践を積み重ねていきたいと考えています。