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保育・教育の本質を考える

保育や教育に携わる者として、最も重要でありながら、意外と明確に意識されていないのでは?と感じることがあります。それは、「保育・教育の目的やねらいとは何か?」という問いです。この目的やねらいを「本質」と言い換えてもよいでしょう。

何のために保育・教育をするのか?どうしてそれが必要なのか?

多くの人は、「子どもの成長のため」「学びのため」「学力をつけるため」「社会性を身に付けるため」といった答えを挙げるかもしれません。しかし、さらに一歩、二歩踏み込んで、「なぜ子どもは成長しなければならないのか」「なぜ学ぶ必要があるのか」と問うと、明確に答えられる方は少ないのではないでしょうか。

今回は、この根本的な問いに立ち返り、保育・教育の本質について考えていきたいと思います。

「保育」と「教育」のちがい

まず本題に入る前に、「保育」と「教育」の違いについて整理しましょう。
保育とは、「養護と教育の一体的な取り組み」と定義されています。つまり、保育の中には教育が含まれており、教育との大きな違いは「養護」、すなわち子どもたちにとっての「安心・安全」を重視している点にあります。

もちろん、小学校以降の教育においても「安心・安全」は大前提ですが、保育の場合、対象年齢が低いため、安心・安全の場が整わなければ生命に関わる恐れがあるという重大な意味を持っています。

本記事では、「教育」という言葉を使用する際、保育における教育面も含めた広義の意味でお話ししていきます。

教育の本質とは

教育の本質について、私が重要だと考えるのは、熊本大学准教授の苫野一徳さんが提唱する次の2点です。

  1. 「生きたいように生きられるため(=自由)の力」を身につけること

  2. 自分の自由のみならず他者の自由も認める「自由の相互承認の感度」を育むこと

それぞれを詳しく解説していきます。

教育の本質①「生きたいように生きられるための力」とは?

教育の第一の本質は、「生きたいように生きられるための力」を育むことです。この「自由」とは、単に好き勝手に振る舞うことではありません。真の自由とは、自分が本当に大切だと思う生き方を追求し、それを実現できる力を指します。

自由に生きるためには、次のような力が必要です。

  • 考える力:自分が何をしたいのか、何を大切にしたいのかを深く考える力。哲学的思考や探究的学びがこれに繋がります。

  • 自己決定力:他人の価値観に流されず、自分の意志で選び取る力。これには、主体性や当事者意識が重要です。

  • 実現する力:夢や目標を現実に引き寄せるための知識、スキル、行動力。読解力や問題解決能力、協働する力などが含まれます。

これらの力を育むことで、子どもたちは社会や環境に受動的に流されることなく、自分の人生を能動的に築いていくことができるようになります。

教育の本質②「自由の相互承認の感度」を育むとは?

次に、「自由の相互承認の感度」を育むことについてです。自由とは本来、他者の自由と衝突する可能性を孕んでいます。ここでは省略しますが、これまで人類は長い間自由を得るために戦争ばかりしていた歴史があります。自分の自由だけを主張すれば争いや孤立を生み、他者の自由ばかりを優先すれば自分自身の自由を失うでしょう。

教育の役割は、このバランスを取る感覚を育むことにあります。具体的には以下のような能力が含まれます。

  • 共感力:他者の感情や立場を理解しようとする力。対話や協同的な学びがこの力を育みます。

  • 倫理観:自分の行動が他者に与える影響を考え、正しい判断をする力。社会的なルールや公共性について学ぶことがこれに繋がります。

  • 対話と合意形成の力:意見が異なる他者と建設的に話し合い、合意を形成する力。これは民主的な社会の基盤でもあります。

これらの力を持つ子どもたちは、自分の自由を実現すると同時に、他者の自由を尊重し、共に生きる社会を築くことができます。

民主主義社会を支える市民を育てる

冒頭で触れた「何のために保育・教育をするのか?」「どうして保育・教育が必要なのか?」という問いに対して、例えば「成長のため」「学力を向上させるため」「社会性を身につけるため」といった答えが挙げられるかもしれません。しかし、それらの最上位の目的は「生きたいように生きられるための力」を身につけること、そして「自由の相互承認の感度」を育むことに集約できるのではないでしょうか。

この2つの力を持った人々が集まる社会、つまり他者の自由を尊重しながら、自分自身も自由に生きることができる社会を「民主主義社会」と呼びます。そして、教育の最上位の目的は、この民主主義社会を支える市民を育てることに他なりません。

おそらく、多くの保育者や教育者がこの視点を十分に意識していないのではないかと思います。保育士や幼稚園教諭を養成する学校でも、「民主主義社会」について深く教える機会は少ないのが現状でしょう。多くの人が「民主主義社会」については、学校の社会科の授業で習った程度の理解にとどまっているのではないでしょうか。

一方、欧米の保育施設や学校では、シチズンシップ教育が積極的に行われています。子どもたちを「受け身の市民」から「能動的な市民」へと育て、民主主義社会の成熟を目指すこの教育は、社会全体の持続可能性を支える重要な柱となっています。

「受け身の市民」と「能動的な市民」

2019年、日本財団が実施した18歳1,000人を対象とする調査では、「自分の行動で国や社会を変えられると思う」と答えた日本の若者はわずか26.9%でした。この数値は、アメリカ、イギリス、中国、韓国、インド、日本の6カ国中最下位という結果です。

この結果は、いまの日本の若者が「受け身の市民」であることを示唆しています。受け身の市民は、何か不都合があった際に他者や状況のせいにしがちです。一方、能動的な市民は、問題に対して「自分がどうすべきか?」と考え、当事者として行動に移すことができます。この違いが、例えば将来コロナのような未曾有の危機に直面した際に、どのような行動がとられ、どのような結果を生むのかを大きく左右することになります。

子ども主体の保育をどう考えるか

では「子ども主体の保育」はこの文脈の中でどのように捉えればよいのでしょうか?

私の考えでは、「子ども主体の保育」とは、あくまで民主主義社会を支える市民を育てるための手段であり、最上位の目的ではないということです。

「子ども主体の保育」で重視される子どもの興味や関心を尊重すること、自己決定力や自発性を育むことは非常に重要です。しかし、これらは最終目標ではなく、民主主義社会に必要な市民を育てるためのプロセスであると考えるべきです。

経営学においても、手段が目的化すると、結果的に本来の目的から遠ざかるケースが多いと言われています。同じことが保育や教育にも当てはまります。「子ども主体の保育」という言葉に囚われ、本来の目的を見失ってしまうことは避けなければなりません。

保育・教育に携わるすべての関係者が、この「本質」を意識し、子どもたちが「生きたいように生きられる力」を身につけ、「自由の相互承認の感度」を育むための手段として「子ども主体の保育」を実践していくことが、社会全体の成長にも繋がると信じています。

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