大人の密やかなひとり遊び、音読

伊藤亜紗氏の『どもる体』(医学書院)を読んだのはおよそ1年前だ。


社会で100人に1人いるとか言われる吃音者のひとりであるが、医療的なフォローや自助団体によるサポートをほぼ受けずに進学し成人となり、就職してやってきた私にとって、吃音を心(脳みそ)と身体の不思議と位置付け、論理的でありながら可笑しさが散りばめられた『どもる体』は、吃音の基本知識を得るのみに留まらず、目からウロコの話ばかりで吃音の複雑さに知的好奇心がくすぐられた。ポジティブで刺激的でとにかく素晴らしい内容だった。


この本に対する自らの考えもいつか書いてみたいが、今回の本題はこの読書体験の中で副次的に得た別の発見である。
それは、音読がおもしろいということだ。

音読…その言葉を見聞きするだけで心臓がキュっと縮む思いがするのはきっと私だけではないでしょう。気づいたら「人前で教科書を読む、きまった答えを口に出す」のが苦手だった。小中高と進んでも音読の困難感は変わらず、いわゆる難発性の吃音が悪化していた。国語の授業、英語の授業、時には数学だって保健体育でさえも、毎日毎日音読の試練がやってきた。

一週間は各授業の音読の有無を中心に回っていた。いつだって時間割を凝視していたし、新学期は先生の授業のやり方を早々に見極めた。自分が当てられる可能性を把握したところで、吃音症ならではの「予期不安」によってむしろ吃音が出てしまうのだが。

学生時代、日時と出席番号で当ててくる先生にもパターンがあり、単純に〇日の数字で決めてくる人もいれば、△月〇日の数字を足し算する先生、下一桁が同じ番号で気まぐれに当てる先生、色々いた。きっと多くの人で共有できる”懐かしあるある”だが、「当てられて発言させられる」のが苦手だった私にとってほとほと嫌な記憶である。そういうあるある話を聞くだけでも未だに胸が苦しくなる。

学年の階段を上がっても上がってもやってくる、お決まりのやり口、音読という試練に流されて何もかも嫌になってしまわぬよう、力んだ身体で必死に耐えていた。当時の私は学校に行かなくて済む方法を知らなかっただけである。今の時代に小中学生だったら、きっとテレビやSNSとかで学校に行かない方法を知り、あっさり不登校児になっていたはずだと思ってしまう。


大学進学とともに音読耐久レースから脱することができた。講義でめったに音読なんてさせないし、音読を好む先生だったとしてもたくさん学生がいるからめったに当たらないし。学校に付き物だった音読から心身開放されるとともに、吃音者である私を少しずつ客観的に見れるようになった。だんだんと吃音への困難感が減って生きやすくなった。そして日常からは音読の存在感なんてあっけなく消えていった。


さて、『どもる体』を読んで。刺激的でありながら良い意味で平易な学問書だと思いながらむさぼるように読み終え、”もう一度読みたい、ここに書かれている全てを私の血肉にしたい”と思った時、そうだ、「音読」してみようと閃いたのだった。あれだけ憎々しかった音読を?自分でもそう思いながら本をパラパラめくり、目についた章を口に出して読んでみた。

・・・

(以下、心の声です)

あー読めない。え、なんで一人なのに吃る?(すらすら読める)…あれ、読めてるなー(吃る)...あー読めない、あ、ここおもしろいなー(すらすら読める)...いい感じで読めてるなー(すらすら読み続けられる)…よし内容に集中してきたぞ(吃る)...え、なぜ「や行」で吃ったたんだろう?苦手じゃないのに!(いろいろ吃り始める)…んー落ち着こう、ここは一人きりの空間だ、口に出してみているだけだ(またすらすら読める、でも時々つっかえる)

・・・

伝えられているだろうか、本当に新鮮な体験だった。学校で音読と向き合わざるを得なかったあの頃は、”音読=やりたくない、しんどい、早く終わりたい”で心が埋め尽くされていた。生き抜くのに必死だったから、自分の吃音を感じながら音読する、なんて試みをやってみる心の余裕は一切なかった。そんな日々を切り離したいま、あらためて吃音に向き合うと、とても心が動く。たくさんの発見がある。自分のことなのに、吃るタイミングやその法則もつかめない。声を大きくしてみたり、小さくしてみたり、立ってみたり、外を眺めてみたり、部屋の家具を意識してみたり。読みながらいろいろ試した。


そもそも、一人きりでも”吃れる”ことから驚いた。高校時代など、流暢に英語をしゃべってみたくて一人勉強机に向かって教科書を音読していたことがあった。そういう音読はあまり吃らなかったため、吃音は人前で出るものだと認識していたからだ。

吃音当事者の中には伝わる人もいると思うが、自分の中に吃る、吃らないの演技スイッチのようなものがある。高校生のわたしは一人きりの時用の「イングリッシュスピーカー風トーキング」スイッチを身につけていたような感覚がある。その際には、「一人なんだぞ、うまくやれ」と指導教官としてのわたしが傍でにらみを利かせて流暢性を確保していたような、そして「一人なら上手に読めるじゃん」と自分で自分を慰めていたような感覚がある。人前でそのスイッチを使うには心の負担が大きく、上手くやれないのだ。こういった感覚はまだ的確に表せられない。

いま、そういったスイッチを取り出すことは、出来るのかもしれないけど、幸いにも吃音を日常の障害と捉えなくて済む環境下で、指導役も慰め役も登場させる必要がない。ただ素直に、声に出して文章を読むと吃音が生じる自分を、遠目で観察する。そこに力みはない。自分の声を自分にだけ届けることに静かな暖かさを感じる。


以来、膝を打ちたくなるようなおもしろさを感じる文章に出会ったとき、たまに気が乗ると音読してみるようになった。つい先ほども読んだ本がおもしろかったので音読してみた。自己観察したってまだまだ吃音の謎を解明できやしないし、誰も聞いてはいないのだけど、ただ一人遊びのひとつに音読が加わったのだ。

もし子どものわたしにメッセージを伝えられるなら、「大人になったら、信じられないようなおもしろいことがあるよ」なのかな。いま改めて、他の誰かの前で音読するとまた感じ方が変わってくるはず、そういった新鮮な日々が訪れるのも密かに待ち遠しい。




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