白昼夢の2次創作を経験して、とりあえず習作をしてみたこと。
森博嗣先生は、「小説の書き方がわからないなんてことは、まずは書いてみてから言え。」とおっしゃっていました。
小説の書き方がわからない自分は、とりあえず超短編の小説から書いてみようと思いました。先人がいるのなら、その話には素直に耳を傾けるべきかもしれません。
というわけで、たばことシェイクスピアをモチーフにして、太宰治らをオマージュした習作です。しかしながらこれ、小説なのか。主語を私にして心情や状況描写を省いたら、ブログじゃないか。
物語って、もう少し人が出て来て、ドラマがあるものじゃないか。
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「喫煙の心、禁煙の心」
今たばこを吸ったら、美味いに決まっている。抗えない。
仕事を終え、帰宅し、風呂に入り、黒糖焼酎を口にし、一筆の文章を書き上げる。内容は、あっちにこっちにと、とっ散らかってはいるが、思いの丈をぶつけられた気がする。ある作家に対する、偏愛を込めて。
面白いか面白くないか心配なうちは、きっと面白くない。面白いものが書けた時は、自分でもわかる。
むかし読んだ漫画にあった台詞だ。ここ最近、自分で物を書き始めるようになってから、確かにそのとおりかもしれない、と思うようになった。
今日の成果物は、「たぶん」面白いだろう。その指標でいうなら、80点くらいの場所にいる。まだまだ下手ではあるが、自分で書いたものに対し、珍しく満足している。
仕事であれ趣味であれ何であれ、何らか満足感を覚えたときには、たばこを吸いたい。吸わない人には分からないだろうが、あれは本当に美味いのだ。私は元々ヘビーな喫煙者であったが、年々、吸えない時間、吸えない場所が増え、そのことに対してストレスを抱えることもまた増えた。そして、禁煙を決断した。
周囲に禁煙を始めたことを伝えると、かつての喫煙仲間の津野さんが「おう、柴田。我慢はよくないぜ。」と言いながら、たばこを勧めてくる。「1本いただけるならいいですよ。」と答えると、「やんねえよ。高ぇんだよ。」と断られる。そして「どうせまたすぐ戻ってくるんだろ。」と笑われてしまう。
本当の我慢は、吸いたいときに吸えないという場面で、最も強烈な衝動に耐えざるを得ない場面で強いられるものであって、しかも大抵、その不快感は嬉しそうな顔をしてやってくる。
私はそれに耐えられなかった。
過去に何度も禁煙を決意しては挫け、腰を砕かれている。直近の禁煙に関しては、失敗に至るまでの経過をメモしたものがある。
いわく
「3日目 5分に1回、1回3分の苦しみ」
「18日目 現在もたまらなく吸いたくなる時アリ」
「50日以上経ってもほぼ同様に厳しい」
あまり記憶にないが、以後、おそらく1本2本吸ったのだと思う。
「吸うと吸わないの共存は、残念ながらできない。一度吸ったら必ず吸いたくなる」
「吸いだしたあとの離脱と、止めてるときの離脱とでは、舌、口内の痺れの重み、衝動の重みが違う」
離脱とは、離脱症状のことで、体内からニコチンが抜けるときに起こる身体のメカニズムを指す。症状はさまざまだが、自分の場合は口の中の痺れだ。その痺れに、苛つく。これがまた辛い。
私は過去の禁煙時にこれほど苦しい思いをしたにも関わらず、5月の連休明けに1本吸ってしまった。そこからは、まさしく坂道を転げ落ちるが如く、だった。喫煙仲間である津野さんは「おぅ、おかえり。」と、すっかり少なくなった同志の帰還を歓迎した。
勤め人としてはわりと許容され得ぬ頻度でたばこを吸う。ビルの高層階にある執務室を出て、エレベーターで一階まで降り、そこからまた喫煙所に向かい、一本吸う。帰りは逆の行程だ。何度か時間を計測したことがあるが、最短でも往復で7分30秒、最長だと13分はかかるようだ。それを1時間に満たぬスパンで行うのだから、考えることが仕事で、席に座っている必要のないことが明らかな自分であれど、上司としては看過できなかったらしい。
「君はそれで集中できているのか。」
「たばこを吸っているときが最も思考がクリアです。」
「今は勤務時間中であることを自覚しているのか。」
「私のことが気になっている時点で、あなたも自分の仕事に集中できていないではありませんか。」
「私の仕事には、部下の勤怠管理も含まれる。」
「大して手当てがつきもしない超過勤務が常態化する中、勤怠も何もあるものか。あなたがすべき管理は、私の成果物の完成度を向上させることだ。」
そんな具合に、上司である二村とは、上手くいっていない。彼が目から鼻へ抜けるほどの人物であることに間違いはないが、同時に仕事というもの対し、極度に潔癖、清廉でもある。その手の話し関しては、例を挙げるに暇がない。彼がいない場所では、彼への不満の声が多々聞こえてくるが、その度に「白河の、清きに魚も棲みかねて」という狂歌を思い出す。
封建的な組織であれど、センスレスな発言があれば、挑発的な言葉や態度でお返しするのが、私なりのささやかな抵抗であった。そもそも喫煙所を外に追いやるようお願いしたのは私ではない。元の場所にあれば、3分程度で吸って帰ってこれたのだ。さらに言えば、好んで二村の部下になったわけではない。彼の下にいなければ、禁煙を続けていたかもしれない。
今や喫煙者に人権はない。他者にとっても身体に悪い、というのはまだ理解できなくはないが、臭いから許せない、というのはただの人格批判でもはや人権侵害だ。そして、望まずして健康を損なうような害を被るのは、何もたばこに限らない。
たとえば二村のような人間と相対するときのストレスは、おそらく私の寿命を縮め、そして少なからず確実に、私の精神を蝕んでいる。
人が人に害を与えることなど、お互い様だろう。自分だけは正しい場所にいると思っているなら、思い上がりも甚だしい。そんな愚かしさも、人によっては甘受できないほどのストレスだろう。
誰が言ったか、「たばこは棺桶の釘」とはよく言ったものと思う。顕著に心肺機能を低下させ、肌は張りを失い、歯や部屋の壁は黄ばむ。最近ではすっかり価格も高くなり、財布にも優しくない。全く健康的でない。
だが、健康に生きることが、人生の目的ではないはずだ。それは数年来猛威をふるった新型感染症対策の方法にもいえた。少なくとも自分には健康が全てではない。やりたいことをするために、自分の命はある。
たばこを吸うための人生ということではないが、たばこを吸っていたからこそ、出会えた人もいる。その人のおかげで繋がれた人もいる。巡り会えた世界がある。
それはさておき、4日前に、再度禁煙を始めた。テレワークの日だった。昼前にたばこを切らしたが、暑さのあまり、外へたばこを買いに出る気分になれなかった。夕方過ぎには眠りにつき、翌朝もたばこを買いに行けなかった。20時間ほど吸わずにいられたのだし、せっかくだから、と、またたばこを止めようと思ったのだ。
最近になって、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」を読んだ。大学時代以来だろうか。男装の女性が裁判を仕切る様は、数年前に読み、私を虜にしたビジュアルノベル作品の中に出てくる、一人の女性の輪郭を、ぼんやりと浮かびあがらせる。
実在にして、かつミステリアスな存在。シェイクスピアは、残した作品たちもさることながら、当人の在り方そのものが表現の対象ともなりやすい。映画「恋に落ちたシェイクスピア」もそうだ。前述のビジュアルノベルも、この映画の影響を少なからず受けているだろう。ただ、それはそれとして、一体何と何と何と何と何と何と何が有機的に結びついたら、あのビジュアルノベルのような話が書けるのか。プロの作家の想像力はおそろしいと思った。
別の作品の、シェイクスピアの言葉を思い出した。
「今晩一晩は我慢しなさい。そうすれば、この次はこらえるのが楽になる。そして、その次はもっと楽になる。」
シェイクスピアもたばこを吸っていたのだろうか。恰好をつけて銀座のバーに行き、昭和初期の文豪が好んでいたという両切りのたばこを吸ったことがあるが、非常にマズかった。世の中のたばこが全部ああなら、私は喫煙者になっていなかったかもしれない。シェイクスピアの時代のたばこなら、なおのこと美味しくないのではないか。
そもそも彼の場合はお酒の方かもしれない、そんなことに思いを馳せていたら、眠気がやってきた。二村からの指示がないことを確認し、部屋の電気を消し、小さな音で音楽をかける。二村と顔を合わすことも、たばこを吸えないことも、苦痛だ。
今日の我慢は、明日の自分の苦しみをいくらか癒やしてくれるだろうか。
おわり