"The LEPLI" ARCHIVE 131/ 『論評-Paris ’15-’16 A/W "COMME DES GARCONS" Collectionを読む-春が熱病のウイルスのように、”』
文責/平川武治;
初稿/ 2015年4月24日;
写真/ Carlo Scarpa-ブリオン家の墓-1978年トレヴィーゾ近郊。撮影/ Taque.
https://www.tjapan.jp/design_and_interiors/17201280
『遥かに行くことは、実は遠くから自分にかえつて来ることだつたのだ。
これは僕に本当の進歩がなかつたことを意味してはないだろうか。
それとも本当に僕の「自分」というものがヨーロッパの経験の厚みを耐ええて、
更に自分を強く表わしはじめたのだろうか。今僕はこの質問に答えることが出来ない。
(中略)ただ僕は、自分の中に一つの円環的復帰が始まつたことを知るのである。
よかれあしかれ、これが自分だというもの、遥かに行くことは、遠くから自分にかえつて来ることなのだ、ということである。』出典:森有正著/”流れのほとりにて”から引用。
僕とこの本、森有正著/”流れのほとりにて”とは縁がある。
僕が5年ほどの初めての海外生活のヨオロッパから帰国した折に偶然に出会った本である。
以後、しばらくは森有正の著作を読むことを帰国後の心と体験を自心の有り様へ沈めるための”師匠”とし通読し多くを学んだ。
前述の一節は”TAO CHING”にも、この内容の言葉があり僕は好きで覚えていて以後、
自分のメールに使っている言葉である。
<“ Going on means going far. going far means returning. ”>
先日、帰国後の落ち込みがひどい時に、偶然に町の古書店で再び、この本に遭遇し、早速、再読した。ちゃんと通読するのは’77年以来であるから38年ほどの時間が経過している。
なので余計に、面白味と好奇心と縋りを感じた遭遇だった。
プロローグ /
さて、久しぶりのブログ記載である。多分、今年最初であろう。
幾つもの、書かなければならないことが、思い出しておかなければならないことが、
あったというのに、ちょうど、今年の僕の頭の中と同じようで、多くの好奇心が
散漫しているだけなのである。
それらをまとめるまでの好奇心と集中力に欠けていたのかもしれない。
その原因も自分では解っているから仕方ない。”諦めと怠惰”という僕の中の人間性の
癖の一つに陥ってしまっただけである。
そして、巴里から戻ってきて、約1ヶ月が過ぎた。
しかし、この諦めと怠惰はより、一層怠惰であり、殆ど僕のこゝろの隅の方から虫食い始めているらしい。
”天然ボケと老人ボケとそして、時差ぼけ”という僕特有の3大ボケが久しぶりに重なって
一つの”調和”を僕の身体に兆したようだ。そんな僕の”3大ボケ”で浸食された身体の大事な
部分に一つの膿のような痼りが強烈に残っているものがある。
それがこの間の巴里でのコムデギャルソン、川久保玲のコレクションである。
『自伝を書く川久保玲』或いは、コムデギャルソンという”ラッピングペーパー”/
一言でそして、結論を言って仕舞えば、「このデザイナー、川久保玲は自分が持ち得た、
自分にしか使えないそして、自分にしか納得できないボキャブラリィーで自らの、自らを
語り始めた。」と言うことだ。
彼女の人生特に、この”巴里”という大きな森へ迷い込んでしまった者のみが、来てしまったがために背負い込んでしまった、”覚悟”と”リスク”と”コスト”をその主なるボキャブラリィーとして”寡黙”というなりすましの外ずらを踏まえたうえで、全体は慎重に、細部に至っては
執拗にそして、彼女の特技によって、大胆に語り始めたのが今シーズンのコレクションだ。
否、もしかしたらもう既に、語り始めていたのかもしれない。
”3大ボケ”で浸食された僕が気ずくことに時間が掛かっただけなのかもしれない。
このデザイナーの”創造の根幹”の一つである、「人と同じことはしたくない。」を根元にして
始まった最終章の2、3シーズンはいつものように、僕なりの経験とスキルと教養で何かを
読み取ろうとしてきた。だが、虚しさだけが残った。
その虚しさとは、向こう側としての或いは、傍観者としての虚しさであった。
通じない、向こう側へ辿り着かないまどろっこしさ。
この原因は僕の中に存在していたものや潜んでいたものの堆積物によってであった。
そして、このシリーズになって今回初めて僕の身体の内部にも彼女が発しているボキャブラリィーがかすかに、感じることができた。
このようなコレクション様式になってからもう多分、5シーズン目であろう。
「鶴の恩返し」から「自らを語り始める」コレクションとは?
あらゆる、”コムデギャルソンというコード”、そして、”川久保玲というコード”のカオス。
有機的なまでのスタイルを取りながらこのデザイナーが身につけてしまった巴里に於ける
”自らの立ち居場所”で、立ち続けるが為に身につけたコード、そのカオスと時間が堆積され、
服化されているコレクション。
その”不調和なる調和”のマテリアルは”レース”であった。
使われたレースには多くの為すべき所作が為され、そのレースを使って、ここ数シーズンに
見られるディーテールが繰り返し使われている。
繰り返す事によってそのアヴァンギャルド性は模倣されると同時に普遍化も辿る。
僕が今シーズンの川久保玲のコレクションから撃たれた衝撃とは、幾何学的までに綿密な
彼女しか使うことが出来ない、諸コードの技巧そのものから
実に、深い精神的雰囲気が溢れていることだけを言つておこう。
そして、表層的なる眼差しで感じられる妄想は、
「巨大なる宇宙空母艦、その巨大さが故に戻れぬ、戻るところへ戻れない悲しみという名声。
向こうに白い太陽の白き輝きを望みつつ、真白きカオスに閉じ込められ守られつつ、 」
『共感こそはあらゆる種類の模倣の〔…………〕第一の源泉である。
習慣は自己による自己の模倣として自己の自己対する適応であると同時に、自己の環境に
対する適応である。流行は環境の模倣として自己の環境に対する適応から生ずるものであるが、流行にも自己が自己を模倣するというところがあるであろう。
われわれが流行にしたがうのは、何か自己に媚びるものがあるからである。』
引用文献/『模索する美学ーアヴァンギャルド社会思想史』/塚原 史 著/論創社/2014年:
僕が今シーズンの川久保玲コレクションを『自伝を書く川久保玲』と感じる発端は、
ランウエーの初め1/3ぐらいからのマヌカンたちの所作からであった。
(このシーンは実に美しいシーンが見られるのでぜひ、見て欲しいです。)
今シーズンのこのブランドで、僕が一番感動したこととは、その所作が川久保玲本人の想いとディレクションによってそれが為されたと後で、プレスの担当者に確かめた事によって
余計に、何かが納得してしまったからである。
僕のこゝろが触れた、この”独り”は通れるが、二人では”袖触れ合うも人の縁”的なる所作、
そのランウエーでのマヌカンたちが行き交うシーンであった。
その細く設えられた独りは十分に通れるが、二人は接触しながら、しないようにと
気をつけて相手を見つめながらしかできない、ここで少しランウエーが数秒であるが、
止まり、交わるという所作である。
ここに、彼女が経験してきたこの世界でのこれまでの”関係性”の根幹を感じてしまった。
そして、千利休のわび茶の”茶道の所作”にまで通じる美意識を感じ、ここに僕はこれは、
彼女本人の”セルフポートレート”である。と言う迄のもう一つの美しさを感じ知り、
こゝろ密かに、感動したのです。
ここに、川久保玲という日本人の美意識と優しさと共に、彼女の”特異性”を再び、
久しぶりに感じたのです。
『 しかし魂は、心は、自分一人で成熟することは出来ない。
このことを僕は痛切に感じている。そしてこの自分ではない他のものは、芸術品や
優れた文学作品では充すことが出来ないのだ。
偉大な作品を見、また読むのは一人でなければいけない。孤独の中に自分を
置かなければいけない。僕はこれまでこのことを痛切に感じて来た。
しかしそれと同時に、同じ程度に痛切に、孤独ではどんな偉大な作品も
心を充すことが出来ないこと、そこにそのことを知り、この孤独の心を知りつつ、
それをやさしく見まもるもう一つの存在、もう一つの眼が必要なのだ。
それがない時、孤独な心は自己を食み、自己を堕落させるのだ。
孤独は孤独であるがゆえに貴いのではなく、運命によってそれが与えられた時に貴いのだ。』
出典/ 森有正著/”流れのほとりにて”から引用。
文責/平川武治。
初稿/ 2015年4月24日。
*蛇足的追記;
1)ショーの後、展示会へお邪魔して驚いた事、今シーズンはこれらの川久保玲の作品群にはちゃんと丁寧で上手な絵型が添えられてビジネスにも対応されていた事。
事実、そろそろ、個人のコレクションピースとしてのオーダーがあるという。
ここにも、このメゾンのビジネスにおける強かさが現実化されている。
「実に、いつも時代の王道を数歩先を行っている、凄さ!」
2)ここ数シーズンの川久保玲、CdGコレクションをブリコラージュし、
音と幾語かの言葉を入れて編集すれば、
この寡黙な女性、「川久保玲」らしい”セルフポートレート”フィルムが出来上がるだろう。