ラストタンゴ・イン・パリ〜マーロン・ブランドが『ゴッドファーザー』の次に選んだ衝撃作
『ラストタンゴ・イン・パリ』(Last Tango in Paris/1972年)
ベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストタンゴ・イン・パリ』(Last Tango in Paris/1972年)を2度観たことがある。
最初は10代後半の頃にビデオで。はっきり言って、アメリカ文化に傾倒した都心在住のティーンのハートに響くわけがなかった。
時代はバブル経済真っ盛り。この映画を貫く気怠いムードやラストの哀しみとは無縁の世界の空気が、窓の外を覆っている。「ヨーロッパ映画=芸術・知性」などという拭い切れない思い込みもあり、やや気負いもあったのか。
でも、同時期に小さな映画館(確か早稲田あたり)で観たフェリーニの『甘い生活』、ゴダールの『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』、ルイ・マルの『死刑台のエレベーター』、ジャック・タチの『ぼくの伯父さん』、アントニオーニの『欲望』、そしてヴェンダースのロードムービーは楽しめたし、その世界観が好きになった。リアルタイムで観たジャン=ジャック・ベネックスの『ディーバ』、リュック・ベッソンの『グラン・ブルー』は心地よかったし、『ニュー・シネマ・パラダイス』には号泣もした。
あれから30数年の歳月が流れた。『ラストタンゴ・イン・パリ』を改めて観て、最初に拒絶した理由が分かった。
あの頃は、自分と同世代の若い女の子が、50歳近いオヤジと戯れるという内容に嫌悪感を抱いていたのだ。
でも今は違う。“オヤジ側”の立場で鑑賞する。マーロン・ブランドの心境が分かるようになった。最後のどうしようもない情けない姿に、“人間らしさ”を感じた。
音楽的には、男と女にねっとりと絡みつくようなガトー・バルビエリのサックスの存在感……ヨーロッパ映画を難しく語る必要はないし、誰かに語るために、同じ映画を何十回も観なくていい。
公開当時は大胆な性描写が話題となり、イタリアでは公開すぐに上映禁止。日本でも
と、騒がれたこともある。しかし、今では驚くべき画など何もない。
ただ、より深みを増した点はある。「名前も名乗らず、素性も明かさず男女関係を持つ」ことが、SNSやスマホを使った“常時接続”コミュニケーションにどっぷりと浸る現在では、何か強いメッセージを放つように思えたこと。
(以下、ストーリー含む)
パリのアパートの空室。同じタイミングで部屋探しに来た中年男(マーロン・ブランド)と若い娘(マリア・シュナイダー)が出逢う。二人は衝動的に互いの肉体を弄り合う。
彼女はジャンヌといって、金持ちの親がいる無邪気な娘。TV局に勤める婚約者がいる。別の日。取り憑かれるようにアパートの空室を訪れると、男は家具を運び込んでそこにいた。
ここでは名も知らず、素性も明かさないこと。ここではセックス以外は存在しないと、男は言う。ジャンヌは、その異様なアバンチュールに身を投じることに同意。以来、二人はただ肉欲に溺れ続ける。
男はポールといって、悪夢のような過去がある。義弟が経営する寂れたホテルを管理していたが、浮気をしていた妻が最近になって自殺。理由もはっきりしないままだ。
自暴自棄になったポールがルールを作り、ジャンヌが受け入れる。この密室の中の出来事は二人しか知らない。
だが、不思議な契約にもやがて終わりの時が来る。ジャンヌの結婚が迫っていたのだ。それは自然な時の流れだった。
そして、魔法にかけられたアパートを離れて街で会った時、二人の関係は逆転する。タフで冷淡なはずのポールがジャンヌを失うことを恐れ、自ら作ったルールを破って支配しようとし、破滅的で自己憐憫に苛まれた姿を見せてしまう。
「もうお終い。これで終わりなのよ」と振り切るジャンヌ。二人が話し合うのは、タンゴが流れる社交ダンス・コンテストの会場。ジャンヌは逃げるしかなかった。ポールは追いかけるしかなかった。
ジャンヌの自宅まで押し掛けてくるポール。そして突然、すべてが終わる。
文/中野充浩
参考/『ラストタンゴ・イン・パリ』パンフレット
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