バード~モダンジャズの苦悩と歓喜を体現したチャーリー・パーカーの伝説
『バード』(BIRD/1988年)
音楽の歴史を振り返ろうとする時、奇跡のようなムーヴメントが足跡のように刻まれていることに気づく。
あるジャンルの音楽が大衆化・商業化すると、その反動として必ず新しい動きが出てくる。しかし、その音楽もいつしかメインストリーム化していく。するとまた、革新的な音楽がどこかでひっそりと産声を上げる……。
音楽の歴史はそうやって積み重ねられてきた。いつだって“反抗(レベル)”が流れを変えてきた。
20世紀初頭に、アメリカの港町ニューオーリンズで生まれたジャズは、第一次世界大戦の影響で軍港閉鎖されると、失業したジャズマンたちが仕事を求めて、シカゴやニューヨークといった都市部に北上して1920年代に発展。
そして1930年代になると、スウィング・ジャズの時代に突入して、ビッグバンドが奏でる甘く夢心地な旋律が白人層の間で大衆化する。
一方の黒人層には、対照的にタフな音楽性を奏でるジャンプ・バンドなどが人気を博し、後のR&B(リズム・アンド・ブルーズ)誕生にも繋がっていった。
そんな頃、楽団の仕事を終えて深夜営業のクラブに集まっては、“アフター・アワーズ”と呼ばれる、自由なセッションを楽しむ若手ミュージシャンたちがいた。
スタンダードソングを素材にしながら、複雑かつ変則的なコード進行やアドリブを試行錯誤していくうちに、“ビバップ”のムーヴメントが1940年代前半〜半ばに生まれる。
それは黒人としてのアイデンティティの追求であり、大衆向けダンスミュージックだったジャズの芸術革命でもあった。ジャズはこれ以降、“モダンジャズ”として1950年代に真の黄金期を迎えることになった。
ギターのチャーリー・クリスチャン、トランペットのディジー・ガレスピー、ピアノのセロニアス・モンク、ドラムのケニー・クラークなどがその代表格だが、アルトサックスのチャーリー・パーカーこそ“ビパップ”そのものだった。
芸術と言っても理論ではない。パーカーは感覚、ブルーズの人だった。鋭角的で凄まじいスピードで起伏するフレーズ。そんな衝撃的なアドリブを吹くパーカーを人々は、「バード(あるいはヤードバード)」と呼んだ。後進のジャズマンはみんなパーカーに憧れ、“バードランド”の名がついたクラブや曲も生まれた。
1942年にニューヨークに出てきたチャーリー・パーカーは、1945年11月26日に初めてのリーダー録音を行う。
サヴォイやダイヤルといったレーベルに残した吹き込みは、ジャズだけでなく、音楽史に輝く名演中の名演として知られている。同じ曲でもテイクごとにまったく異なる演奏すべてが、鑑賞の対象だ。
映画『バード』(BIRD/1988年)は、そんな革新的な音楽を創造した男の物語。ジャズに“モダン”の命を吹き込んだチャーリー・パーカーの人生を、夜のムードの中で映し出していく。
監督は熱狂的なジャズファンでもあるクリント・イーストウッド。パーカー役はフォレスト・ウィテカーが演じた。サックスのソロ演奏部分は、実際のパーカーの音源を使用したことでも話題になった。
ビバッパーたちがドラッグやアルコールに傾倒していたことは有名だが(それゆえ「堕落の音楽」と言われたりもした)、中でもパーカーはとことんやった。
映画は、娘の死、仕事の行き詰まり、持病の悪化が原因で自殺未遂を図って精神病院に入院するところから始まる。根強い黒人差別や役人によるキャバレーカード剥奪の脅し(これがないとクラブで演奏できない)など、ビバップはその激しさと美しさ以上に、「闘いの音楽」でもあることを教えてくれる。
さらに精神が追い込まれてウィスキーに酔って意識もうろうとする中で、「Lover Man」をスタジオで録音するシーンがあるが、その姿にモダンジャズの苦悩を見たような気がする。
そしてドラッグや酒と、どうしても縁を切れない革新的な芸術家が、人を愛して家庭を持つこと=荒れた心に訪れる、静寂と平穏のささやかな風景が忘れられない。
チャーリー・パーカーは1955年3月12日に亡くなった。享年34。彼の死後、音楽史にはロックンロール旋風が巻き起こった。
文/中野充浩
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