格闘する者
昨日は青山ブックセンターという本屋さんへ行った。『さみしい夜にはペンを持て』の作者・古賀史健さんと、『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』の作者・古賀及子さんのトークイベントに申し込んでいた。
申し込んだときには当たり前のように仕事帰りに行くことになると考えていたな、と思った。
「青山学院大学」の門前を通って、おおこれが、と小さく感嘆。ビル街にでも大学があるとどこかホッとするのは京都の影響かなと思った。大学=自由の砦のように考えているところがあるかもしれない。
ブックセンター自体初めて訪れたけど、トークイベントというのにも考えてみれば初めて行ったかもしれない。
正直、行ってよかった と思った。
初めはふむふむ聞いていたのが、わりかし早い段階でスマホのメモ帳にかかりっきりだった。それは古賀及子さんの一言がきっかけだった。
朝日新聞に『さみしい夜にはペンを持て』の書評を依頼された古賀及子さんは、登場人物のタコジローが「学校でうまくいってない」ことをあらすじとして書いた。それを古賀史健さんが、「他の方は『タコジローは学校で“いじめられている”』と書く」と言い、古賀及子さんがそう書かなかった理由を問われた時のこと。
古賀及子さんはこの言葉が出てくるまで、しばらく自身の中で格闘されている様子だった。古賀史健さんのお話を受けて、あらましを的確に捉えるキーワードとなる言葉を見事な技と言えるほど、わりに素早く返球しておられる古賀及子さんだったのだけど、そこでは数秒立ち止まって、「いじめ」という言葉を使わない自身へその理由を自問されている様をまざまざと見ることができた。
それで出てきたその言葉に、私も、そうだよなと思った。そうだよなと思ったけど、私が言葉にしたならば、それは「キツすぎる」ぐらいの語感になっただろうなと思う。そして、言葉にしたならばと書いたけど、もし書評を書くとしたなら、やっぱり私も「いじめ」と書いただろうなと思う。それは世間に通用する言葉で説明することを必要と“されているような”気がしてくるからだ。
古賀及子さんはこうも言う。(メモより。()内は後から付け足し。)
私は言葉を格闘して捻り出すことはしていないなと思った。辞書を引いて言葉の意味が間違っていないかを確かめることはしょっちゅうだし、言い換えや類語を調べることもあるけど、自分の中にある言葉を引っ張り出して来ようとすることは諦めているように思った。それこそ「格闘」としか言えないような、自身の中で言葉の取っ組み合いをするうちに、その場が耕される感じがして、物事が多角的に見えてきたりする。それは、自分の中にいるたくさんの自分が会議室のテーブルを囲んで様々に発言し合っている時間だと思う。私はそのうちの一人にだけ発言させたものを総体の言葉として受け止めているところがあった。色々な自分がいる中のある一人のある気分ぐらいのものを、私自身が「自分の感情」として全面的に支持したけど、その支持は大して「格闘」されてはいなかった。むしろ、世間に通じるかということばかり気にしていたなとハッとした。
古賀及子さんの「(自分が生きてる世界は)自分が見つけること」の言葉が冴え冴えと響く。
自分の感情を自在に表現できるような、とくに、話し言葉でそれが出来たらいいなと思った。
古賀及子さんの格闘する姿を見て、なんか、羨ましかった。いや、自分がそれを放棄してきたのだなと強く思った。
ひとまずの感想として、書き記しておく。