「逃がす」をやってみる
テレビから聞こえてきた「甘えなさんな」という言葉にドキッとする。
遅くまでバラエティー番組をハシゴした。
番組を見る幾つかの目が、自分の中にあるなと思う。
当たり前に、なんだろう、茶の間にテレビがあって夕飯のあとは家族で過ごす文化を享受してきた“かんじ”を今夜は過ごした。
欠勤の身ながら履歴書を書き始めて、
怖くて、途中でペンを置いたんだよねー。
それまではやっぱり『モモ』を読んでて。
マイスター・ホラにクイズを出されて、モモが素直に答えを導き出す。時間のことを尋ねる。
心は、時間を感じるためにあるんだとホラは言った。
そこですごく、なんていうのかなぁ、お疲れさまって、自分に言いたくなった。
やっぱりそこで物語がぐいっと自分にくっついてしまって、なんか、逃げちゃった。
逃げちゃったもんだからイケナイと思って履歴書を取り出した、のかもしれんな。
書いて、また物語に戻ってストーリーを読んで。
モモはまた円形のあの場所に戻った。
私はそこから、
一度逃げちゃったから、なんていうか、「自分がやりたかったことを逃しちゃったんじゃないの」っていう意識が生まれてしまって。
「モモ」を読んでぐっと物語が差し迫って色々と感じて、それを、パッと他へ逃しちゃったから、
逃さなかったら、今なにを感じてたかなぁっていう思いが、一日付きまとった。
そうか。
。 。 。
書いてみて、なんだか、わかるものがあるな。
でも、「逃した」のが、私だよね。
それで夜、バラエティー番組から「甘えちゃダメ」と聞こえてきて、やっぱりドキドキがあって、だらだらと遅くまでテレビをずっと見てた。
小さいころ、テレビを観ることしか、家族と、してこなかったと言っても過言じゃない暮らしだったので、
こうやって日記を書くとか(それも他者に見られる形で)、だれかとしゃべる、そういうことがないと、その日うまれた“不安”みたいなものは、ずっと浮ついたまま、行くところがないよなと思ったりした。
ほんと、しゃべらない家族だったから。
妹がかつて、長年勤める会社で、県を代表して表彰されることになって、私も呼ばれて行ったとき、妹はどえらい緊張して、萎縮していて、あ、そうなんだなと思ったものだったけど、皮を剥いたら私も同じ、社会的なものにめっぽう弱いなと、ほんとに同じだと、今日初めて感じた。
あの日わたしが妹に感じたことを、私はわたしに感じた。
いや、私は履歴書の、まだ「学歴」の段階でよ?
住所までは大丈夫だったんだけど、学歴で、手がすこし震える。明らかに“社会”が部屋に入り込んで不安を煽った。
職歴は無理だった。あはは
頭ではもう10回は面接でしゃべってるからね。
速すぎてむりなんよ。
でも、もうそれが「社会じゃない」ってこと、わかり始めたけどね。
そうやって「準備」しちゃうけど、
準備して怖くなるけど、
もう、対等。
もう、こちらだって等しく人間、社会の仲間。
心が追っつかない場所で、生きなくていいってこと。
自分の速度が現実。
速回しせずに、受け止めていれば十分。
それで、じゅうぶん。
だから、大丈夫だ。
だから、大丈夫。
大丈夫だよ。