『ウイルス』に感染した!?
COVID-19が世界中で猛威を振るっている。
12月半ばにIMW(インディアン ムービー ウィーク)を観に行ったが、その後、観るつもりだった、いくつかの未見作品は諦めた。新文芸坐の黒澤明✕三船敏郎の特集上映も諦めた。今の東京に “映画を観に行く” という行動が、地元の町では許されない雰囲気を強く感じているからだ。
黙っていればいい?
たしかにそうかもしれない。でも何かしら体調を崩した時、それは通用しない。実際、去年3月にIDE(インド大映画祭)を観に行き、直後の4月に入院したのだが(もちろんコロナではなく)、その場合、行動経緯を細かく伝えることになる。その時、トランピアンのような感覚で、COVID-19は、ただの風邪とでも考えていない限り、黙っていたり、嘘をついたりはできないだろう。
ともあれ、その際、新型コロナへの感染疑いが晴れるまで感染病棟に入院した。病状(髄膜炎)も深刻だったので個室だった。
すると部屋に入ってきて処置をする度、「信じられない」「よくこんな時に……」「映画ねぇ……」と呟く看護師がいた。舌打ちまでされたので、実にいたたまれない気持ちになった。でも熱と痛みで朦朧としていたので何も言い返せなかった。もちろんこの看護師が例外的で、他の看護師さんたちはとても優しかったし、大変な緊張と細心の注意を強いられながら、懸命に看護してくれていた。
だからもう、あの時のような嫌な思いはしたくないし、医療現場に負担をかけたくないという思いもあって、“東京に映画を観に行く” ことに強い葛藤を覚えてしまうのだ。
それでも、映画はマスクをして喋らなければ問題ない。だからいいんじゃないかという誘惑に負けそうになる。でも今の東京は……。
だから県内で上映する『ミッション・マンガル 崖っぷちチームの火星打上げ計画』や、あまや座を始めとした地元の映画館に行く足を止めるつもりはない。
そんなわけで会期途中で劇場に出向けなくなってしまったIMWだが、ありがたいことに配信がある。
そこで未見だった『ウイルス』を観た。新型コロナが猛威を振るっている今こそ観るべき作品なのは間違いないし、多くの示唆や啓示を与えてくれる良作だったので紹介しておきたい。
パンデミック映画のパターン
新型コロナが深刻になり始めた2020年4月初旬、(先述のとおり、この4日後に入院するのだけれども)下記のような記事を書いた。
多くの「パンデミック映画」は、致死率の極めて高い(または100%の)ウイルスが拡散を始め、やがて収束していくまでが描かれるが、そこにはいくつかパターンがあるようだ。
1.政治家や軍人の立場から描く
『アウトブレイク』『FLU 運命の36時間』『復活の日』など
2.医療従事者や疫学者の立場から描く
『コンテイジョン』『感染列島』など
3.ゾンビ映画として描く
『ワールド・ウォー Z』『28日後...』『新感染 ファイナル・エクスプレス』など
特異なパターンとして『バード・ボックス』『パーフェクト・センス』『CURED キュアード』といった作品もあるが、おおかた上記の3つに分類されるだろう。
今回観た『ウイルス』は、医療従事者や疫学者の立場から描く2に分類されると思うが、実際のところ(分けておいてなんだが)どの作品も比重の違いはあれど、それぞれの立場は描かれ、多くの場合、1と2は対立してしまう。
『ウイルス』でも、医療従事者や疫学者たちと中央政府との間に不協和音が鳴り響き始める。中央政府はテロの可能性を視野に入れ、政治的・軍事的介入の圧力をかけてくる。そこで医療従事者や疫学者たちは、それを拒むために、地方政府の政治家と協力していくという構図になっていく。そうして専門家と地方政府の政治家が話し合いを重ね、対応していくさまは、少しばかり『シン・ゴジラ』を彷彿とさせる。
さらには、感染源を辿るミステリーが縦糸となり、その過程で描かれる感染者やその家族のドラマが横糸として織り込まれ、そこに犯罪映画の要素までもが加味され、出色の出来栄えになっている。
2018 Nipah Virus Outbreak in Kerala
実はこの作品、実際にインド・ケーララ州で2018年に発生した、ニパウイルスの感染流行(WHOによる報告)を元に作られている。
それもあって登場人物がとても多い。だから人物の相関・因果関係に混乱する人もいるかもしれないが、大筋は問題なく辿れるはずだ。逆にその混乱をミステリーの謎解きのように捉えてみてもおもしろいだろう。
未感染者による、既感染者や感染が疑われる人への差別的言動。
第一号感染者の家族の苦しみ。
恋人を感染させてしまったと自責の念に苛まれる医師。
生活の秘密暴露にも繋がるので、接触経緯を正直に話さない市民。
実際にあった出来事が基になっている分、自分が当事者になった時、どうするだろうという思いが突きつけられる。
インドのマラヤーラム映画には、感嘆と敬服を禁じえない作品に何本か出遭ってきたが、ここにまた1本加わった。
ぜひオンラインで鑑賞してみて欲しい。
時間があれば、ぜひ他の映画も。特に『僕の名はパリエルム・ペルマール』をお勧めしておく。
ラストに込められたメッセージ
※※※この章のみ、若干のネタバレあり!※※※
終盤、ミステリーが解決する。
つまり、第一号感染者が特定され、感染源が判明する。
そのプロセスで、いつ、どこで、誰に会っていたかが明かされていき、第一号感染者の不穏で奇異な行動と人格描写が散りばめられていく。だから、第一号感染者の奇行が感染の原因となり、多くの人が亡くなるアウトブレイクに至ったのではないか……。
そんな思いを観客に抱かせつつ、映画は終わろうとする。少なくともぼくは、そう思ってしまったし、当時のインドでも、きっとそのように言われていたのだと思う。
ところが、第一号感染者がどのように感染したかという、具体的なエピソードがラストに描かれ、ミステリー最後の謎が解き明かされる。
それは、観客(社会)が思っているような、変人の奇行などではなかった。自然を愛し、動物を慈しみ、その生命をたいせつにする、心優しい、ひとりの、普通の人間の、人道的行為に過ぎなかった。
それがさらりと描かれる。
ぼくは、この不意打ちに思わず落涙を止められなかった。
同時に大自然への畏敬が示唆される。ぼくたち人類は、ズカズカと野生の生活圏に立ち入り、軽々しく接触してはいけないのだという戒めにも繋がっていく。
なによりも、第一号感染者の無垢な振る舞いを見せられて感じるのは、こうした感染が拡がった際、安易にその人を糾弾したり、責を負わせたり、差別的に扱ってはならないという気づきだ。
実際にあった出来事を基にしているとはいえ、最後のエピソードは、おそらく誰も知らない。それを聴き出す前に、そのかたは亡くなっているはずだからだ。
つまり、このラストは脚本家と監督の想像で描かれている。ぼくが涙したのは、第一号感染者への、監督たちの優しい眼差しに他ならない。仮にラストのエピソードが事実だったとしても、それを最後に語ることで、よりドラマティックに戒めや諭しをぼくたちの元に届けてくれている。
まさしく、映画の、物語のチカラだ。
いずれにしても、映画『ウイルス』は、この新型コロナが世界に突きつけている命題──つまり、人類は他の生命とどう共存し、大自然とどう関わっていくか──について、根源的な問いかけをもたらしていることは間違いない。
コロナなんだから映画なんか、観てる場合……
U-NEXTが
という惹句でCMを流している。
なかなか良いフレーズだと思うが、締めの惹句は違うと言いたい。
生産性云々と言えばそうかもしれないが、だとしたらぼくの人生、無駄が多過ぎる。
たしかにある知人はこう言った。
「映画は観ないんです。映画の物語に共感し過ぎちゃうっていうか、感情の起伏が凄いことになってしまうので、観終わるとドッと疲れて何も手がつかなくなるんです。だから映画は観ないんです。
それに映画ってどんな良い映画でも映画じゃないですか。要は、作り物じゃないですか。現実じゃないわけですよ。だから映画を観る前と観た後、現実は何も変わらない。だったらその2時間で洗濯や掃除をしたほうがいい。そのほうがちゃんと現実のことを前に進められるから気持ちいいし、現実も実際に良くなっていくので……だからテレビドラマも小説も同じ理由で観ないし読まないんです」
軽い目眩と痛みを覚えた。
こんなふうに映画やドラマや小説を捉える人に初めて出会った驚きゆえの目眩。そして自分が現実逃避で映画を観ているという(自覚はあるけど直視しないでいる)痛点を突かれた痛みだ。
されど、人は記憶と物語で出来ているのだから、たくさんの物語を知っている人生のほうが豊かに違いない。
たしかに映画『ウイルス』に涙したとは言え、ぼくは一銭も生み出していないし(サポートいただけたら変わるけど)現実問題の解決にも生活のあれこれにも何ら貢献していない。
ただ確実に前よりも心は豊かになり、気づきは深まっている。
そう自分に言い聞かせ、ぼくはまた別の物語にダイヴする。
自分自身の人生という物語も含めて。
【了】