「肘は外に曲がらない」-『自由』の本当の意味
前回に続き、禅ネタです。
『禅(ZEN)』が世界的に普及するまでに至った最大の功労者で、海外に思想的な影響を与えたもっとも有名な日本人、鈴木大拙博士が感銘を受けた言葉があります。
それは
「ひじ、外に曲らず」
です。
まぁ、当たり前ですよね笑
たまに「仰天ビックリ人間」とかでものすごい角度に曲がる人も例外的にいますが、ふつう肘は外に曲がりません。それは子どもだって大人だって同じです。日本人だってイギリス人だってブラジル人だって変わりません。みーんな同じです。それが肘ってもんです。
そもそも肘が外に曲がっちゃったら、腕ひしぎ十字固めが意味なくなっちゃいますしね。
大拙博士は若い頃、アメリカに渡って東洋の思想を翻訳出版する仕事に就いていたのですが、その時、この言葉を見て次のように悟ったそうです。
「なあるほど、至極あたりまえのことなんだな。なんの造作もないことなんだ。そうだ、ひじは曲らんでもよいわけだ。不自由(必然)が自由なんだ」(秋月龍珉『人類の教師・鈴木大拙』より)
なんで「肘が曲がらないこと」が「自由」なんでしょうか??
「不自由が自由」ってどういうことなんでしょ。
ていうか、そもそも「自由」って何なんですかね?
「自由」の意味
例えば「三省堂大辞林」によれば
じゆう【自由】
① 他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていること(さま)
② 物事が自分の思うままになるさま。
とあります。
まぁ、なんとなくわかりますよね。私たちがイメージする「自由」はだいたいこんな感じだと思います。
ところで英語で「自由」を表す語として「freedom」「liberty」がありますが、両者の違いをご存知でしょうか?
◆freedom=「権利としての自由」
freedomの「自由」は、「最初から与えられている」とか「あって然るべき」「妨げられるべきでない」といった言葉を枕ことばに付けるとイメージしやすいかもしれません。例えば「表現の自由」や「言論の自由」は憲法で権利として保障されているものであって、誰にも分け隔てなく与えられていて、また誰にも妨げられるべきものではないので、freedomを使います。
日清カップヌードルとコラボしたCMで話題になった大友克洋監督のアニメ「FREEDOM」では、まさに主人公が「あって然るべき自由」を求めていくストーリーが描かれていました。
◆liberty=「状態としての自由」
一方、libertyの「自由」は、自ら勝ち取って得た「自由」という意味です。奴隷など、元々は「自由」ではなかった状態から、自らの行動によって独立解放された状態を指したものです。アメリカのシンボル「自由の女神」の「自由」はこちらです。(Statue of liberty)。
日本人の「自由」はどっち?
では、現代の私たちが日常的に口にする「自由」はfreedomとlibertyのどちらの意味でしょうか?基本的にはfreedomのはずです。
だってlibertyとは「不自由な状態」から自らの行動によって勝ち取った「自由な状態」を指します。例えば「奴隷の身分から解放された」とか「属国だったけど宗主国に戦って独立した」とか、能動的なアクションの結果として至った「状態」です。日本は海外と違って単一民族国家のまま近世になっちゃったので、誰かが誰かからlibertyを勝ち取るという事態は起きようがありません。(国内でfreedomを賭けた戦いは色々あったと思いますが)
上で紹介した三省堂大辞林の「自由」の定義もfreedomとほぼ同義といってよいと思います。少なくともlibertyではないですよね。
さて、freedomが私たちが口にする「自由」だとして、その意味するところは「最初から与えられた」「あって当然の」という意味でした。
しかし、鈴木大拙博士はこう言います。
「自由」という言葉を英語でfreedomと訳すのは間違いだ。
なぜなら、freedomには「自ずから」という言葉が入っていない。
これってどういう意味なんでしょう?
「自由」とは「自ずからに由る」ということ
ここまで「自由」=「じゆう」と読んでいたと思いますが、そもそも「自由(じゆう)」という単語は日本には元々ありませんでした。19世紀に海外から輸入されたものです。当時、海外から様々な哲学や概念が日本に輸入され、その時に割り当てた訳語の一つです。
ちなみに当時freedomを「自由」と訳したのは森山栄之助、libertyを「自由」と訳したのは福沢諭吉だそうです。当たり前ですが、別の人物が同じ言葉を当てたということですね。
一方、「自ずからに由(よ)る」という語は以前から日本にありました。これは日本固有の概念ではなく、仏教や老荘思想などの東洋思想に通底する基本的な考え方です。
「自ずからに由(よ)る」を一言でいうなら
「他者の基準でなく、自分自身の基準で、自分自身に納得する」
って感じでしょうか。
私たちはどうしても「基準」を自分の外に求めがちです。
例えば、
・「優れている/劣っている」の基準
・「美しい/醜い」の基準
・「役に立つ/役に立たない」の基準
そして、これらの基準を「客観的に評価する」とされている仕組みが世の中に溢れ返っています。テストの点数、SNSのフォロワー数、食べログのスコアetc…。
でもこういった「客観的な評価」がどれだけアテにならないか、私たちはよーくわかっているはずです。テストの点数だけはいいけど他人の事を思いやれない人、フォロワー数は多いのにいざという時に誰も救いの手を差し伸べてもらえない人、食べログで高評価なのに行ってみたらヒドイお店etc。
もちろん、この「客観的な評価」が全く無意味とは言いません。「特定の領域、特定の状況」における指標としては有効なのだと思います。
でも、対象のある側面を切り取って評価して、それであたかも対象の全てが評価されたかのように取り扱われるのは明らかに誤りです。
その誤りがまかり通っているのが今の社会であり、その結果私たちは、この「客観的な評価基準」に一喜一憂したり右往左往したり振り回されてしまいます。
これが「自らに由っていない」、すなわち「不自由」だということです。
他者の基準に振り回されているので「他由」と言う人もいます。
つまり私たちは「不自由に生きてる」ということですね。この自由主義全盛の現代社会で。
肘を外に曲げてもいいけど、もうそれ肘じゃないからね
冒頭のひじの話に戻ります。
「ひじが外に曲らない」のは、当たり前なんです。
だってそういう風に人間が作られてるんですから。
180度しか曲がらないからこそ肘なんです。
これがもし、
「肘が外に曲がらないなんて不便すぎる!」
「関節の優劣は曲がる角度の広さで決まる!!」
と思う人がいたとしたら、まぁそれはその人の基準なので否定しませんが、その基準を他者に強要してほしくはないです。
というか
360度曲がる肘って、もはやそれ「肘」って言わないですよね?
って話です。
産業用ロボットとか戦闘用アンドロイドのように作業効率や戦闘効率を求めるために180度しか曲がらないという制約を撤廃したいと考えることもあるでしょうけど、それはテストの点数や食べログのスコアと同じです。
評価基準によっては「曲がれば曲がるほど良い」んでしょうけど、でも私は360度曲がる肘を持つアンドロイドと暮らすのはイヤです笑(気持ち悪いし)
まとめ:「自由」に生きるってなに?
振り回されやすい「他者の基準」の中でも、年収や職業のように後から何とかできるものはともかく、生まれや身体的特徴(体型・美醜・障害)など、自分ではどうにもならないものほど、他者の基準とのギャップが苦しくなります。
「何で俺、こんなにブサイクなんだ…」とか
「こんな障害があるせいで、人生こんなにハードモード…」とか。
でも、ひじが外に曲らないのと同じで
今、そうやって生まれてしまった以上はどうしようもないのであって、
いまあるものをまず受け入れて、それを活かすことを考える。
他者が決めた基準や評価に照らして自分の持っているものがどうであってもそれに振り回されず、”自分の中の基準”に照らして満足ならそれで満足する。それが「自ずからに由る」という意味での「自由」であり「自由に生きる」ってことだ。
なーんてことを大拙博士は悟ったんだろうなーと思います。
おしまい。
おまけ
この「ひじ、外に曲がらず」は
禅宗の公案(問答集)の一つである碧巌録に収録されている句です。
臂膊不向外曲。
『臂膊(ひはく)、外に曲がらず』
おまけ2
「自然」も「自由」と同じで、19世紀に海外から輸入された概念が定着しちゃって、本来の語の意味が忘れられちゃったってやつ。コチラで書いてます。↓
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