「ママ」をもう一度人間にするために―『約束のネバーランド』と『かか』より(2/2)
第65回群像新人評論賞最終候補に残った「「ママ」をもう一度人間にするために―『約束のネバーランド』と『かか』より」の後半です。
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◯子どもは「ママ」の神様
次に、「ママ」が鬼の世界で育てる食用児は一体何を象徴するのかについて論じていく。端的に言うと、「ママ」は私的領域で自分が生き延びるために「母性」を内在化し、子どもの中に存在する、ある種のアイデンティティを犠牲にしており、食用児はその象徴になっているのだ。
この議論をさらに進めるために、私的領域における「ママ」を描いた他の作品を引用しておきたい。今回は、宇佐見りんの『かか』を取り上げて論じていく。
宇佐見りんの『かか』は、浪人生のうーちゃんという少女と、愛に飢えて精神を病んだうーちゃんの母の「かか」を中心に、不協和音を奏でる均衡がギリギリ保たれる家族を描いた作品である。うーちゃんは自分の家族、とりわけ「かか」を見つめるとき、自分が女性であることについて強い嫌悪感や閉塞感を感じる。うーちゃんが感じているのは、男性によって分断された二世界のうち、私的領域に押し込められるのが女性であり、そこからどうあがいても逃れられない絶望である。
たとえば、「かか」と離婚して別居している「とと」が、うーちゃんの住む家に養育費を直接渡しに来たあと、うーちゃんは以下のように語る。
もちろん、「男のことで一喜一憂したり泣き叫んだり」というのは、「とと」に渡される養育費に象徴されるような、男性に養われることで経済的に依存せざるをえない状態のことも指しているだろう。だが、それだけがうーちゃんの感じる「くやしさ」や「かなしみ」の全てではない。
うーちゃんの言う、「男のことで一喜一憂したり泣き叫んだり」するとは、男性との異性愛で飼い慣らされて、その視線で私的領域に閉じ込められた女性が、その領域の中で愛を求める化け物へと変貌していくことも意味しているのだ。それは、先ほど引用したうーちゃんの語りの直後に挿入されている、SNSでナンパされた数や経験人数を自慢する女性に噛み付くまた違う女性のつぶやきをうーちゃんが眺めるシーンから分かる。
ここでいったん、男性と女性がどのように公的領域と私的領域の二世界に分断されているかを確認しておきたい。東園子の『宝塚・やおい、愛の読み替え』では、女性にとって異性愛による親密性が唯一無二のものだったと説明される[4]。近代以降では公私が区別され、私的領域と性的な関係が結びつき、そこにより強い親密性が与えられた。逆に言えば、公的領域からは性的な関係が排除される。
しかし、公的領域の社会では、男性はホモソーシャルな関係という、親密性を持つ関係を同性間で築いている。このような公的領域におけるパーソナルな関係は、公的領域の持つ公平性という建前に隠れながら身内で社会資源を分配するためにある。女性はここから排斥されているため、女性は社会という公的領域に立ち入ることができず、社会は男性中心で構成されるようになった。
そして、私的領域に属する女性に対し、男性は親密性への欲求を教え込んできた。自分たちに特権をもたらすホモソーシャルな関係について、身内に甘くしているだけだと糾弾されるのを回避するため、ホモソーシャルな関係をあくまで公的なものとしたい男性たちは、その関係から私的領域と結びつきの強い性的関係を排除しようとした。すなわち、そこに恋愛の要素は微塵もあってはならない。だが、これでは男性の親密性への欲求は宙に浮いてしまう。なぜならホモソーシャリティが担う友愛による親密性は、性的関係に裏付けられた私的領域での親密性より弱いものだからだ。
そこで、男性は私的領域で親密性への欲求を満たすことにした。もちろん、その相手となったのは女性である。彼女たちは社会から排除されているので、ホモソーシャルな関係におけるダブルスタンダードに悩まされることなく、男性たちは安心して親密性を求めることができる。きれいに分断された公的領域と私的領域の二世界という構造を維持するため、女性は恋愛至上主義を教え込まれる。異性愛を脅かすものとして女性同士の友愛は排斥され、私的領域にある家庭とそれを支える男性との恋愛を最も重視するという女性ができあがっていく。
再び『かか』のテクストに戻ろう。繰り返しの主張にはなるが、うーちゃんの言っていた「男のことで一喜一憂したり泣き叫んだり」という言葉は、親密性への欲求が男性との異性愛でしか満たされないように仕組まれている女性の有り様を指し示している。「『ナンパ自慢とか、経験人数自慢とかってださいなあって思う』」とSNSで批判され、「『だってしょうがないじゃん』『淋しいんだもん』『癒しにもならないってわかってるけどさあ』」と返すフォロワーの女性の言葉によって、男性との異性愛を安定供給されないだけで、女性の親密性への欲求が簡単に暴走してしまうことを明確に描いている。
そして、女性を私的領域に閉じ込めるのは男性にとっては造作もないことである。うーちゃんが干している洗濯物を見た「とと」のうーちゃんを女性としての値段をつけるような視線、それを感じたうーちゃんはその視線について感じる不快感について以下のように吐露する。
男子生徒たちの猥談によって、女性教師たちのように「知的で自立した女の人」が別の顔をするようになるとは、そこにいるだけで男性によって振り回される場所である私的領域から抜け出し、公的領域で生きようとする女性が、急に異性愛や性的関係の相手としての女、として見えてくるということだ。そして、うーちゃんに対して「とと」が向けた視線には、男子生徒たちの猥談と同じような効果がある。
つまり、異性愛や性的関係の相手として価値が十分にあるかどうかという男性の視線、それが向けられるだけで女性は、「男のことで一喜一憂したり泣き叫んだり」するような存在へと舵を切られる。さらに、そのような存在が私的領域に結び付けられるということは、うーちゃんが「とと」の視線を浴びせられたとき、洗濯物を干すという家事をやっていた描写からも分かることだ。女性が家を中心として広がる私的領域にしばりつけられるには男性の視線さえあれば十分なのだ。
そして、異性愛によって親密性への欲求を満たすことを刷り込まれ、男性の視線という私的領域にしばりつける粘っこい糸を何度も巻きつけられた女性はやがて結婚をし、母になる道に収められていく。それは、女性が私的領域に家庭という根城を構え、そこに棲むのを決めるということでもある。
そのとき、異性愛の安定供給を保証する結婚は、女性の親密性への欲求を埋めるための長い苦しみに終止符を打ってくれるように思える。うーちゃんの「かか」もそういう希望を持って結婚した女性のひとりだった。公的領域など知らなくても、優しい夫に可愛い子どもたちに囲まれるなら、親密性への欲求が満たされない飢えをもう経験することはない。本当はそうなるはずだった。
しかし、「ととならきっと愛してくれると思って結婚したけんど、でも愛されるんは無理だった」のだ。その結果、「かか」は親密性への欲求を持て余すことになるが、問題なのは彼女が私的領域に閉じ込められていることだ。「かか」は、私的領域に構えた家庭という小さな箱庭から外に出ることはできない。
となると、「かか」はその家庭にいる他の存在に愛をせびるしかなくなる。そして、そんな都合のいい存在、子どもしかいないのだ。「かか」は同居する自分の母にも甘ったれるが、冷たく突っぱねられてしまう。そうなると当然、自分の子どものうーちゃんとその弟に親密性への欲求を集中的にぶつけるようになる。「とと」が浮気をしたことで自傷行為に走った「かか」がうーちゃんを抱き寄せて髪に顔をうずめるなどして甘ったれてきているとき、うーちゃんは以下のような思いに駆られる。
「かか」の自分に対する甘ったれが、本来であれば「とと」に向けられる類の感情の表れであることに、うーちゃんは気づいている。つまり、本来であれば「とと」との異性愛や性的関係によって満たされるはずだった「かか」の親密性への欲求を、うーちゃんが代わりに受け止めてあげているのだ。子どもは所詮、男性によって拒絶された女性の親密性への欲求を代わりに叶えてあげる人形でしかない。
このように、永遠の保証だったはずの結婚で失敗し、家庭によって私的領域に完全に縫い付けられた母は、子どもに甘えて親密性への欲求を満たしてもらおうとする。うーちゃんは「かか」の甘ったれに応え続けた結果、学校にも行けなくなって浪人するなど、どんどん摩耗していく。「かか」は、私的領域において親密性への欲求を暴走させ、うーちゃんを犠牲にしているのだ。
そして、この「かか」の姿こそが『約束のネバーランド』で、鬼の世界で食用児として犠牲になる子どもを育てる「ママ」の皮を一枚剥いだ姿なのだ。だが、単に「ママ」の親密性への欲求を「パパ」の代わりに子どもが受け止めているというだけでは、「ママ」が子どもを鬼に食わせているという描写をされるほどの残酷さを帯びることの説明としてはやや足りない。子どもを食う鬼は一体何を表しているか。
そのために、『約束のネバーランド』で鬼はなぜ食用児を食べるのかについて考えなければならない。作中、鬼は自分が食った生き物に応じて形態が変化すると説明される。もし鬼が何も食べなければ、知性が失われてどんどん退化していき、生物の進化を巻き戻すかのように原初の細胞にまで戻ってしまう。これが鬼の飢えだ。鬼の大好物は人間の脳みそという設定になっているが、それは手っ取り早く知性を摂取できるからである。つまり、鬼が子どもを食うのは、人間と同等の知性を保つためなのだ。
しかし、ただ高い知性を保つために人間を食うという解釈にとどまると的外れになってしまう。鬼は知性を失うことだけが怖いのではない。鬼の持つ飢えへの恐怖は、以下のように述べられている。
この鬼の述懐の前には、人間を食べずとも知性を保てる血を持つ鬼のムジカに対し「『いいわねムジカ』『あなたはずっとあなただもの』」という別の鬼のセリフが挿入される。ここから、鬼が人間を食べて知性を維持するのは、自己同一性、自分の内面のアイデンティティ――自分が自分であるという確信――を保つためであることが分かる。
そして、『かか』においても、「かか」が自己同一性を保つためにうーちゃんを利用している。このために「かか」はうーちゃんを神様のように扱い、縋りつき、うーちゃんを虚ろな存在にしている。
「かか」は誰からも愛されなかった人間だった。自分の母、つまりうーちゃんの祖母からの寵愛を受けた姉の傍らで、いらない子として扱われた「かか」はいつも罵られるばかりで、ようやく救ってくれると思えた「とと」にも逃げられた。最後には、ボケ始めた自分の母に、自分のことを認識してもらえなくなってしまう。このようにして「かか」の自己同一性は危機に瀕することになる。
そんな「かか」は、うーちゃんに対して「かかのこつ好き」と切実なトーンで問いかける。あらゆる人間に愛されずに否定されてきた「かか」を、うーちゃんは神様のようにただ肯定して受容してあげることを「かか」に求められるのだ。
ここでの神様とは、治者としての父のように、常に頭上で道標として輝く存在ではない。この神様は、大澤真幸が『不可能性の時代』で論じた、酒鬼薔薇事件の加害少年が生み出した「バモイドオキ神」と同じ役割を担う。その役割とは、人間の内面に存在する特定のアイデンティティをその眼差しによって認めることだ。この特定のアイデンティティについて、人間のアイデンティティすべてを構成するものの中で個体の諸性質(性別や現住所などの言語化できる属性)に還元することができない余剰Xと大澤は定義している[5]。そしてさらに、余剰Xさえあれば個体の諸性質が変わったところでアイデンティティの喪失につながるわけではないとする。これはまさに、『約束のネバーランド』で鬼が食用児を食べることで保っている「自分が何者であるか」、「自分が自分である」という確信に必要不可欠なものである。この余剰Xを他のアイデンティティと区別するために、〈アイデンティティ〉と表記しておこう。
このような意味において、うーちゃんは「かか」にとっての神様になっている。自分の存在を母に忘れられ、あと少しで自己同一性が崩壊してしまいそうな「かか」が投げかけた「かかのこつ好き」という質問に「あいしとうよ」と答えたうーちゃんは、「かか」の名前や年齢などのデータに還元できない〈アイデンティティ〉をただ見つめて肯定し、自分の視線でそれを規定してあげている。
なぜなら、うーちゃんはそのとき、たとえ「かか」の洗剤の泡にまみれた手で頭をぎゅっと撫でられても「洗剤の泡あわが目に染みて痛くてたまらんのにうーちゃんは目をひらいて」、「かか」を見つめていたのだから。うーちゃんは「かか」を見つめていた理由について、「はっきょうまえのかかの顔がこれから一生見られなくなること」が分かっていたからこそ今の「かか」を記憶に焼き付けたかったからだと回想する。そして、うーちゃんは同時に「かかのからだからかかのたましいが出ていくのを食い止めようと」もしている。「はっきょう」して全く違う人物になってしまいそうな人間から出ていく「たましい」とは、まさに〈アイデンティティ〉のことではないか。だからこそ、うーちゃんは「あいしとうよ」という返事と視線で、「かか」の〈アイデンティティ〉を規定してあげようとしていると言えるのだ。
そして、「かか」に「あいしとうよ」と答えたあと、うーちゃんは自分が「かみさま」になる決意をする。うーちゃんは「唯一絶対のかみさまを持たん人々は、それぞれ祈りの対象を人間に求めます」と考え、「うーちゃん自身がうーちゃんたちのかみさまになるしかもう道は残されていないんでした」と語る。
このように、母の自己同一性を保つための視線さえ持てば、ただの子どもが神様として成立してしまえるのだ。
さらに、そのような神様になることは、私的領域において母の親密性への欲求を満たしてあげることでもあるのだ。「かか」は、傷だらけとなった自分の〈アイデンティティ〉を肯定してもらうために、うーちゃんに「かかのこつ好き」という愛情の有無を確認する質問、つまり親密性への欲望が満たされるかどうかを試す質問を投げかけるのだから。「かか」はしばしばうーちゃんを、「えんじょおさん」とエンジェルの発音をわざと崩して呼んで可愛がり、うーちゃんに甘ったれていた。もちろん、愛すべき存在を「天使」などと呼ぶのはありふれている。だが、いかにして子どもが母の神様になるかという議論を踏まえると、「えんじょおさん」という甘えた呼び方には、母の親密性への欲求を満たすことと、母の〈アイデンティティ〉を肯定する神様になることが切り離せない関係にあることが表れているようにしか見えてこなくなる。
しかし、子どもを神様にしておくには大きな犠牲が必要となる。その犠牲とは、子どもの〈アイデンティティ〉の抹殺である。神様としての子どもは、他者でありつつも他者ではないような空虚な存在であることだけが求められるのだ。
ここで再び大澤真幸の『不可能性の時代』に戻ろう。先ほども触れた通り、大澤は、酒鬼薔薇事件において加害少年が人間の顔に執着していたことについて述べていた。少年は被害者の顔と正対した上で殺害しているが、大澤は顔というのは「最もヴィヴィッドに、魂の存在を直観する」部位であるとし、彼の〈アイデンティティ〉をまなざされたい欲望と照らし合わせた上で、少年が他者性のない他者の視線を求めていたと述べる。ただし、その他者とは「象徴秩序の中で割り振られた特定の規定性を帯びた」存在ではなく、より直接的かつ身体的なレベルでの関係において、「純粋な差異、私に帰属する宇宙の総体に対する差異、上位の同一性の中で決して相対化されることのない絶対的な差異」として登場する存在である[6]。
つまり、自分の自己同一性を保つために、自分の意向で制御できる一方、生身の人間として自分に接する他者という「不可能性」を孕む存在を求めていたのだ。
これは矛盾した欲望にも思えるが、おのれの自己同一性のためにまなざしをくれる神様を求めていたのであれば納得できることではないだろうか。大塚英志が『おたくの精神史』において、この少年が求めた視線について「誰かに私が私たり得たことを認知してもらわないことには、せっかく達成したはずの自己はすぐに溶解してしまう」と述べたように、自己同一性の維持には、自分とは異質の存在だとはっきりと言える他者の視線が常に求められる[7]。だが、せっかく他者の視線が存在しても、視線を逸らされたり、あるいは自己を否定されたりしては意味がない。したがって、自分とは絶対的に異なる存在でありながらも、自分を否定しないような脱臭された他者が求められる。
だからこそ、うーちゃんも「かか」にとって他者性のない他者にならねばならないのだ。神様として「かか」の内面にある〈アイデンティティ〉を肯定することを求められるうーちゃんの〈アイデンティティ〉の中に、「かか」を少しでも否定するようなきっかけはあってはならず、むしろ「かか」と同質化していく必要があるのだ。
そのことは、うーちゃんが「かか」と身体を共有するような感覚、つまりうーちゃんが「かか」と同質の人間になっていく感覚を持つ描写が度々登場することから分かる。「かかの痛みは望むと望まざるとにかかわらずうーちゃんに乗り移るんです」「うーちゃんとかかとの境界は非常にあいまいで、常に肌を共有しているようなもんでした」とうーちゃんが語る言葉は、「かか」をうーちゃんが神様のように肯定するシーンの途中に挿入されている。「とと」が浮気したあと、うーちゃんは以下のようなやりとりを「かか」と交わす。
このようにして、「かか」の〈アイデンティティ〉を肯定してあげるうーちゃんは、「かか」の自傷による痛みが本当に自分に乗り移ったかのように感じる。そして、「かか」の自傷行為を引き起こした根本的な原因は、「とと」の浮気とそれによる「かか」の〈アイデンティティ〉の否定であることから、この痛みが身体的なものに限定されないのは明白だ。
つまり、うーちゃんが「かか」と痛みを共有するという描写は、子どものうーちゃんが「かか」の〈アイデンティティ〉を肯定するたびに、自分のそれを少しずつ消していって「かか」と同質になっていくことを示している。逆に言えば、「かか」は、自分の〈アイデンティティ〉を規定するために、子どもであるうーちゃんのそれを殺していることになる。
このような「かか」の行動は、『約束のネバーランド』で自己同一性を保つために食用児を食っている鬼と同じものである。
そして、母と子どもがこのような関係にある限り、子どもは永遠に大人になれないのだ。たしかに、子どもは年をひとつずつ積み重ねていって成人にはなれるかもしれない。しかし、「成熟」はできない。江藤は『成熟と喪失』において、「『成熟』するとはなにかを獲得することではなくて、喪失を確認すること」であるとし、「母」を壊すことによる罪悪感を引き受けて「人と人とのあいだで生きて行かねばならぬことを自覚しなければ」、真の意味において「成熟」できないと述べている[7]。この江藤の言説は、今こそ主張されなければならない。
子どもが母と同質の〈アイデンティティ〉を持つように育てられ、母にとっての他者性のない他者として育てられていくのであれば、子どもの視点から見ると、他者性のない他者としての母がいつまでもついてまわることになる。物心ついたときから誰かの神様になることで人間と関わる術しか教えられてこなかった子どもは、少なくとも自分の内側を蝕む母の〈アイデンティティ〉を切除しない限り、真の意味での他者に遭遇することはないのではないか。たとえ母を狂わせる罪を背負うとも、身体の一部がもがれるような痛みを感じようとも、母の〈アイデンティティ〉を否定し、神様になることを拒否しなければ子どもは永遠に大人になれないのだ。
だが、それができる子どもは一体どれだけいるのだろうか。それができない子どもがほとんどであるからこそ、『約束のネバーランド』で食用児が鬼の食料として続々と出荷されてきた設定がされているのではないか。
◯「母性」に手をのばす「ママ」
これまでの議論で、私的領域において母の〈アイデンティティ〉を肯定し、規定する神様になるために、いかにして子どもの〈アイデンティティ〉が殺されるかを見てきた。
しかし、『かか』は「ママ」と「母性」を切り離せていない。けしてそれが作品に瑕を与えているわけではなく、むしろ切り離せないからこその子どもの苦しみを描いている作品なのだが、本稿の狙いは「ママ」から「母性」を剥がして一人の人間にすることだ。だから、ここで再び『約束のネバーランド』に戻らねばならない。
『約束のネバーランド』において「ママ」は子どもを食べる鬼とは別の存在として描かれている。それどころか、「ママ」もかつては食用児のひとりであり、そしていまは鬼の食用児生産システムの人質になっている存在として描かれる。そう、鬼の女王レグラヴァリマが象徴する「母性」の人質になっているからこそ、「ママ」は「母性」的な行動を取るし、子どもを鬼に食わせもするのだ。イザベラは食用児たちを「ただ普通に愛せたらよかった」と強く後悔するように、食用児生産システムなど存在しなければ、子どもたちの〈アイデンティティ〉を殺すことはしなかったはずなのだ。
だが、子どもだったイザベラは、食用児として出荷されること――それはつまり、自分の〈アイデンティティ〉が殺されること――、そこから逃れなければならなかった。まず、彼女は農園からの脱走を試みるも、そのときに農園の「ママ」だった女性に連れ戻されてしまった。絶対に農園から逃れられないという絶望の結果、当時の彼女に残されたのは、鬼の食用児生産システムに取り込まれて「ママ」になり、鬼の食べる子どもを育てる道だけだった。
それはつまり、子どもが自らの〈アイデンティティ〉を食いつぶされないようにするためには、今度は自分自身が子どもという神様の〈アイデンティティ〉を食らう側になるしかない、ということだ。そして、それができるのは女性だけなのだ。
だが、それは当たり前のことではないか。「ママ」は鬼の食用児生産システムにうまく組み込まれることで生き延びていた。そのシステムの一番上に立つのは女王レグラヴァリマ、つまり「母性」だ。「母性」によるシステムの手先となって生き延びるには、「母性」を行使できる「ママ」になる道しか存在せず、そしてその道が開かれているのは子宮を持つ少女だけだ。
このようにして、少女は「母性」を自らの中に取り込んで「ママ」になる隘路へと追い込まれていく。だからこそ、「ママ」と「母性」は同じ存在として論じるべきではないのだ。「ママ」の恐ろしい「母性」的な行動もすべて、「ママ」が「母性」の人質であることが背景にある。『約束のネバーランド』はそれが分かっているからこそ、子どもを食うという、子どもを犠牲にすることに直結する行為を「ママ」にさせていない。子どもたちが本当に睨みつけるべきものは、女王レグラヴァリマを筆頭とした鬼の象徴する「母性」という概念であり、それに支配されている「ママ」ではないのだ。
つまり、子どもの〈アイデンティティ〉を食うことで母の〈アイデンティティ〉を担保する構造は、何でも受容する「母性」という神的な概念によってこそ支えられているものであり、「ママ」は「母性」にアクセスし、それを内在化して行使しているだけにすぎない。
母と子どもの肉体的な近接性に基づいた、子どもの何もかもを大地の神のように受け入れて許容する「母性」。家にいながらあれやこれやと子どもに対して愛情たっぷりに心配をして、子どもが反抗すればするほど決して外の世界に出さないような「母性」。日本という土壌で、息子たちがあれこれと論じることでその輪郭を明瞭なものにしていった「母性」は、「ママ」が子どもを神様にするときに非常に利用しやすかったはずだ。
そして、そのような「母性」は、〈アイデンティティ〉を食われる子どもについての議論を通すと、以下のような「ママ」の行動として結像する。子どもが私的領域の外に出ようとしない限りは、痛みを共有するほどの感覚の同一性を母子関係に与えるほどに、子どもの〈アイデンティティ〉をおのれのそれに近づけるように育てる。自分と同質の〈アイデンティティ〉が育っている限り、つまり子どもが「成熟」しない限りは、全肯定して私的領域に留まらせる。抵抗すれば、その原因となっている子どもの〈アイデンティティ〉を否定し、決して私的領域から出ないように手を引っ張る。
このように、「ママ」が子どもの〈アイデンティティ〉を食って神様にするシステムは「母性」によって裏付けられている。そして、子どもの眼前に立ちはだかる「ママ」の行動は「母性」そのものに見える。しかし、「ママ」もかつては〈アイデンティティ〉を食われる子どもだった。そこを生き延びるためには、予め用意された概念の「母性」を「ママ」として利用するほかなかった。たとえ自分の行動によって子どもたちを「母性」に食わせることになろうとも、「母性」の玉座がより強固なものになろうとも、「ママ」という人間は生き延びたかった。
『約束のネバーランド』で、イザベラが産んだ子どもであるレイに「ねぇ……なぜ俺を産んだの?お母さん」と聞かれた彼女が「“私が生き延びるため”よ」と答えたのは、つまりこういうことであったのだ。
◯私たちは女の子をまだ殺してしまう
さて、本稿でいくら「ママ」と「母性」を切り分けたところで、明日「ママ」が子どもを犠牲にしなくなるわけでも、「母性」を目の前にした少女の絶望がなくなるわけでもない。「母性」はいまこの瞬間も、永久機関と思えるほどに稼働しつづけている。
しかし、そこから逃れねば生きてはいけないという人間の切実な要求が、新たな虚構の作品を生む。
川田は『女の子を殺さないために』で、「物語の地図」として三角形の上部に「パパたちピラミッド」を置き、三角形の下部に「ママたちネットワーク」を置く図を提示している[8]。上部の「パパたちピラミッド」とは、男性たちが仕切り、権力の座を奪い合って男の子たちがレベルアップを目指す世界であり、下部にある「ママたちネットワーク」とは、先述の通り、絶対に子どもを逃さない「母性」を男の子たちが倒そうとする世界である。「パパたちピラミッド」を上昇していけば、男の子が成長して父を倒す物語が語られるし、「ママたちネットワーク」を下降していけば、文学の求める荒涼たる「砂漠」を目指して「母性」の包囲網を抜ける物語が語られる。
もうすでにお気づきかと思うが、この「物語の地図」は、まさに本稿で論じた公的領域と私的領域の分断ときれいに重なるのである。川田は「パパたちピラミッド」を昇っていく物語が求められず、「ママたちネットワーク」を下降する物語だけが求められると論じるが、それは当然のことなのだ。子どもたちは鬼の世界、つまり私的領域の「ママたちネットワーク」で犠牲になっている存在であり、まずは「母性」から逃れることをまずは考えねばならないからだ。
だが、川田はあくまでも、どんどん堕ちていった先の地の底にある「砂漠」の世界、人間の垢にまみれていない清潔な自然を求めて、文学が「まわりにある」母、つまり「母性」とそれを行使する「ママ」の包囲網を抜け出すための物語を求めたと語る。その目的において「母性」と「ママ」は邪魔モノであり、倒すべき存在として論じられる。
しかし、「母性」と「ママ」を存在させているのは文学なのではないか。『約束のネバーランド』では、「パパ」のピーター・ラートリーが二世界の分断を死守するために、「ママ」たちを鬼の世界に閉じ込めていた。そしてその「パパ」は、決して大人になれない「ピーター・パン」だった。それはつまり、「パパたちピラミッド」を駆け上がれず、治者になれない男の子のことでもある。また、「パパたちピラミッド」を駆け上がれないことは、父を倒す物語が成立しないということでもあるのだ。語るべき物語が存在しなくなった「ピーター・パン」は、その代わりとなる別の物語を欲する。そして「砂漠」に到達するまでの紆余曲折という物語を生み出す「母性」を確実なものとして据えるため、「ママ」を私的領域に閉じ込めている可能性があるのではないか。文学を延命させるため、文学という呪いにかかっているからこそ、自然と「母性」を論じて言葉を与えてしまい、確固たる存在にしているのではないか。
これは八方塞がりに思える状況だが、希望はまだある。川田の論じた「物語の地図」で示される物語は、男の子にとっての物語でしかない。その「地図」に組み込まれた女の子と「ママ」には、川田の言う「ママたちネットワーク」、つまり私的領域という鬼の世界から抜け出すための物語を語ることができる。男の子が、女の子を母になりつつある存在、つまり彼らの周囲を囲む「母性」へと落下していく存在として捉え、自分たちの手で据えている「母性」になりきらないうちに殺すのであれば、まず手始めの抵抗として女の子は上昇する物語を語ろうではないか。
たとえば、1997年に放送された幾原邦彦監督作品のアニメ『少女革命ウテナ』では、繰り返される決闘のために少女が螺旋階段を上がって闘技場へ向かう。物語の舞台となる鳳学園では、「世界を革命する力」を得るために姫宮アンシーという「薔薇の花嫁」を奪い合う決闘ゲームが主に男子生徒の間で繰り広げられていた。そして、この「世界を革命する力」というのは、「成熟」するための力と言える。
決闘ゲームが始まる前には、この文句がいつも繰り返される。男の子が女の子を手に入れることで破壊できる「世界の殻」、しかもそれが「卵の殻」と表現されているのであれば、それは「卵」を産んだ「母性」しかないであろう。
しかし、その女の子を奪い合う決闘ゲームをバカバカしいと一蹴して終わらせようとするのが天上ウテナという少女である。そんなウテナは決闘の前に、いつも長い長い螺旋階段を上がっていくのである。
さらに、2015年に結成されたアイドルグープ「欅坂46」も女の子が上昇をする物語を提供していた。グループのテーマソングと言える「W-KEYAKIZAKAの詩」では以下のような歌詞を彼女たちは歌っている。
そして、このミュージックビデオでは、センターの平手友梨奈が普通の女子生徒として生きるパラレルワールドの彼女自身とすれ違うシーンが挿入される。普通の女子生徒として生きていれば、彼女は「ママ」になっていた可能性が高い。続くシーンで、アイドルとして生きる世界線の平手友梨奈は、普通の女子生徒として生きる世界線の彼女を追いかけようとする。
しかし、普通の女の子に戻ろうとする彼女に「欅坂46」の他のメンバーが立ちはだかる。そして、アイドルとして平手友梨奈が歌うことになったのは、可愛い恋愛について書かれた歌詞ではなく、「愛の鎖 引きちぎれよ」などと歌うレジスタンスの歌ばかりだった。
このように、女の子が上昇する虚構の物語は確実に芽吹いている。しかし、上昇していった果てに到達すべき世界があるわけではないので、その物語には限界がある。『少女革命ウテナ』も最後はウテナがおびただしい数の剣に刺されてしまうし、「欅坂46」もメンバーの心身を摩耗させていった果てに儚く幕を閉じてしまった。
とはいえ、その動きが確実に物語の輪廻を生んでいるのは確かだ。『ユリイカ』の幾原邦彦特集号では、辻村深月が、『少女革命ウテナ』に影響されて育った幾原邦彦の「妹」とも呼べる女性クリエイターたちが多くいることを述べている。松田青子は『持続可能な魂の利用』で「欅坂46」の平手友梨奈を登場させた物語を書いている。
それがたとえ、おじさんの手によって作られた物語でも、女の子を最後に殺してしまうような物語でも、確実に私たちは「ママ」と子どもたちを「母性」が支配する鬼の世界に閉じ込めた「パパ」のこめかみに銃口をつきつけることができる――『約束のネバーランド』で、「ママ」たちと子どもたちがしたのと同じように。
たとえそれが文学ではないと言われたとしても、私たちにはどうだっていいのだ。すべては「ママ」を人間にするため、私たちが人間であり続けるために。
*後半参照文献*
[4]東園子『宝塚・やおい,愛の読み替え―女性とポピュラーカルチャーの社会学』、新曜社、二〇一五年。
[5][6]大澤真幸『不可能性の時代』、岩波書店、二〇〇八年。
[7]大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』、星海社、二〇一六年。
[8]川田宇一郎「濃縮還元100パーセントの恋愛小説」』、講談社、二〇一二年。
(了)
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