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奇説 今昔物語集 vol.003 -藤原氏列伝(中)-篇

 今回は藤原氏列伝の中篇、悪馬を乗りこなした藤原 内麿の系譜から始まる。原本である『今昔物語集 本朝世俗部』でいうと「閑院の冬嗣の右大臣ならびに息子の語、第五」からになるが、この辺りから藤原氏が権力を掌握するまでの荒々しい雰囲気は消え、平安貴族としての繁栄の様子、その風雅さ、恋のあり様などが色濃く前面に押し出されてくる。

1.人生の明暗は死後まで分からず

 今は昔、閑院の右大臣と呼ばれた藤原 冬嗣(ふゆつぐ)には、多くの子供たちがいた。ちなみに冬嗣は最後は左大臣を務め上げ、死後、太政大臣を追贈された。平安左京三条にあった私邸が閑院邸と称された事から、冬嗣は閑院大臣と呼ばれた。

 冬嗣の長男は、藤原 長良(ながら)といい中納言であったが、どんな理由があったのだろうか、長男にも関わらず他の兄弟と比べて最も身分が低かった。次男の藤原 良房は、その邸宅が現在の京都市左京区の岡崎公園あたりにあり、そこを流れる白河にちなんで白河殿と呼ばれた。この邸宅は後に皇室に寄贈され、白河法皇の御所となったため、歴史上、白河殿というと一般的にはこの法皇のことを指す。良房は娘の明子文徳天皇の后として嫁がせると、明子は清和天皇を産んだため天皇の外祖父となった。清和天皇は幼少期を白河殿で過ごしたことから終生、良房に対する信任が厚く、良房は権勢を極めた。
 彼は道鏡以来、90年間空席であったという太政大臣になるだけでは収まらず、人臣で初めての摂政となった。藤原氏の摂関政治の歴史は良房から始まったといって良い。

 ちなみに、良房は清和天皇が即位した後の貞観2年(860年)に、大分の宇佐神宮から八幡神を山城国男山に勧請して石清水八幡宮を創祀している。清和天皇から分かれた源氏が八幡神を信仰するようになるのも、良房がきっかけであったといえる。

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