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溺れる人は溺れてから助けを求める 篇

 今はむかし、古代中国にあったという国に孔子という人がいました。孔子が物心ついたときには、この国は三桓氏と呼ばれる三人の家老たちに牛耳られておりまして、孔子の一生とはまた、この三桓氏との戦いでもありました。

 やがて魯の君主、昭公は三桓氏の横暴に耐えかねて隣接する大国のに亡命します。このとき斉の君主は景公で、宰相は晏子(あんし)でした。晏子は実は二人おりまして、晏弱(あんじゃく)も名政治家といって良い才能と功績を持っていましたが、その子の晏嬰(あんえい)こと晏平仲史上最高の名宰相の一人と言ってよく、後に司馬遷は『史記』の列伝の中で一番最初に取り上げました。ここでいう晏子とは晏嬰のことを指します。

 さて、亡命してきた昭公を面接した景公は、その話術の巧みさに感心し、

「こんな優秀な人なら、魯に帰国するのを手伝ってあげれば、さぞかし名君になりそうだが、どう思うか?」

と晏子に尋ねました。このとき晏子は、顔を険しくして

「難に臨みてにわかに兵を鋳る」

と言ったんですね。困難に直面してから兵を準備するようではダメだ、という意味です。

 晏子はこう続けました。水に溺れる人は、溺れてから助けを呼ぶし、道に迷う人は、迷ってから人に道を聞くのです。逆を言うと、溺れない人というのは、溺れる前に泳ぎ方を人に聞くし、道に迷わない人というのは、出かける前に道を調べておくものです。それができない人が、リーダーとしてやっていけるでしょうか。

 国会の論戦で「防衛費の増加は本当に必要なんですか?」などと言う野党議員に、こうした故事でスパッと切り返して欲しいものですが、政治に話題を絞るまでもなく、これは経営的な資質、もしくは人生の生き方に置き換えても十分に通ずるものでしょう。

 ぼくの周りにも、問題が大きくなってからしかホウレンソウ(報告・連絡・相談)しない人がいるのですが、もう何というんでしょう、病院に行かないことで有名な林田がこれを引き合いに出すのも不適切ですが、

「なんで、こんなになるまで、、、」

という医者の気持ちを時折、味わっています。まぁ、原因はズボラだということに尽きるわけですけれども、このズボラがどこから来るのかに気づかねば、永久に修正されないんだろうなぁと思います。

 ぼくはその根底にあるものは「八方美人」にあるとニラんでいます。他者にとって都合を悪いことを言って、自分のことを悪く思われたくない。良い人でいたい、という気持ちが、問題を先送りしていくことになるわけです。言うまでもなく、問題の先送りというのはリーダーにとって致命的な欠点です。なぜならば、問題は小さなうちに芽を刈り取るのであれば、さして労力も使わずに処理することができるのですが、放ったらかしておくと、その芽はグングンと伸びて対応するのに苦慮するからにほかなりません。

 朱子学の祖である朱子は、その著書『近思録』の中でこう書いています。

「嫌を避くる者は、皆内足らざるなり」

 人に嫌われることを避ける人は、心の修養が足りないのだ、という意味です。リーダーは、優しいだけでは部下に舐められてしまう、かといって厳しくしすぎると人は近寄ってきません。この距離感が難しく、これらは置き換えてみれば「威厳」と「寛容」ということになるのですが、この二つをあわせ持った人は、たとえ人から嫌われたとしても、尊敬はされることになります。

 そりゃあ誰しもが、人にはよく思われたいものです。いい人でありたいと思う。しかし、それは他者にとって都合のいい人であって、本来は、真の尊敬を得られた上でのものでなくてはいけません。結局、他者にとって嫌なことは言いたくない悪い報告はしたくない、という態度は、自分にとって都合の良い状況を選ぶ、または作り出そうとすることですから、こうした決定は不確かなものにならざるを得ません。

 たとえば、こういう人は、事業を企画していくときに、A(やる)という選択肢とB(やらない)という選択肢があるとき、やると決めればBの人に恨まれるし、やらないと決めればAの人に恨まれる。そこでC(やるようでやらない、やらないようでやる)というような不確かな選択肢を選ぶわけです。

 ぼくはよく、

「やるの?やらないの?」

と決断を迫ります。世の中は二者択一の真理に満ち溢れているわけではないのですが、リーダーは時に決断をしなければならないわけです。このとき、ある人は、

そんなの決められないよ

と正直に吐露しますし、ある人はフリーズして黙りこくってしまいます。そのときは、ぼくが代わって決断するわけですけれども、ずるいなぁ、嫌われそうなところは人に押し付けるんだな、と思って見ています。最終的な責任は、ぼくが取るので、まあそれも良いでしょう。そういうこともあるでしょう。

 しかし得てして、こういう人は最終的にはみんなに嫌われてしまうということを付しておきたいと思います。八方美人はやがて破綻するのです。さらに、自分に都合の良い決断を続けていると、自分自身の中でも辻褄が合わなくなってくるので、自分で自分のことすら嫌いになってしまいます。朱子の

「皆、内足らざるなり」

という言葉はこうした結末を予言しています。

 ちなみに『近思録』は『論語』の中にある

「切に問いて、近くを思う。仁その中にあり」

を出典としています。切実に問題意識を持ち、身近なことから考えていきなさい、ということです。「切問」の語源でもあります。最後に「威厳」と「寛容」との間を行ったり来たりする潤滑油として、遊び心が大事だということを付け加えておきます。チノアソビなのであります。

(了) 2025 vol.027

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